いま世界中、あるいは日常で、 さまざまな「対立」が見受けられます。 そこには非常に危機的な「対立」もあれば、 関係がいい方向に向かうための「対立」も 両方あると思うんですが、 「対立」についてぼくは、 さきほどダイアモンドさんがおっしゃったような 正しい「比較」の視点を持てていなかったり、 自分を冷静に捉えられていないときに起こるのでは? と、思うんです。 そのあたりの「対立」ということについては、 どう、思われますでしょうか。 |
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それについては、2つの答えを思いつきました。 短い答えと長めの答えがあります。 まず、短いほうですけれども、 先週イギリスに行ったときに聞いた話で、 作家のジョージ・バーナード・ショーの 言葉なのだそうです。 「知的な人は常に 何が正解かはわからない、と考える。 何かに強い確信を持つのは いつも知的でない人のほうだ」 これが、ひとつめの回答です。 |
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なかなか強い印象を与えるフレーズですね。 |
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もうひとつは、長めの回答です。 今度の本でも書いた話ですけれど、 「対立」にどう対処するかが、 ニューギニアなどの伝統的な社会と、 日本やアメリカといった先進国のあり方では まったく違うんですね。 |
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そうなんですか。 |
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ええ。 多くの伝統的社会において、 「対立」の相手は知り合いです。 社会の規模が小さく、 一生を数百人以下のコミュニティで暮らすわけですから、 そのときの「対立」の相手というのはたいてい、 もともと知っていたり、誰かと親しかったり、 何かの関わりがあったり、という存在なんですね。 そうした社会で「対立」が起きてしまったとき 大切なことは、「関係をどう修復するか」なんです。 |
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ああ、なるほど。 |
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一方、日本やアメリカなどの先進国の社会で 「対立」が起こったときに大切なのは、 「どちらが正しいか」です。 日本やアメリカで交通事故があったら、 事故の相手というのは基本的に 初めて会った、知らない相手です。 その後の関係も、まずありません。 だから相手が怒ろうが泣こうが関係ないわけで、 「どちらが正しいか」の考えのもとに 「対立」を解消しようとします。 警察や裁判所の考え方も 「どちらが正しいか、間違ってるか」 の上に立脚していますよね。 |
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たしかに、そうですね。 |
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本で紹介した事例なのですが、 私にはニューギニアで事業を営んでいる 友人がいるんです。 あるとき、その友人の会社の社員が 10歳の男の子を車でひいてしまった。 物陰からその子が飛び出してきて、 ブレーキは引いたんだけれども、 気づいたときには遅くって 結局、男の子は亡くなってしまった。 アメリカであれば、すぐその友人は まず事業主として弁護士を雇い、 「どうやって社員を弁護するか」 という考えに集中していたでしょう。 亡くなった子供の遺族との関係づくりなど、 微塵も考えないと思います。 ところが、この事故が起きたのはニューギニアです。 全く対応が違いました。 |
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はい。 |
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まず事故の翌日に、 亡くなった子供のお父さんが 友人の会社を訪ねてきたのだそうです。 そのとき友人は 「殺される!」と思ったそうなんですが、 そのお父さんがやってきた理由は、 こういうことでした。 「おたくの社員が事故を起こし、 うちの子供が亡くなりました。 わざとやったことでないのは、わかります。 けれど現在、私たち家族は 非常につらい気持ちの中で暮らしています。 ですから4日後に子供のことを偲んで 昼食会を開こうと思っています。 そこへ、来ていただけないでしょうか。 また、その昼食会の食べ物を 出していただけないでしょうか」 そういう話だったんです。 |
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はああー。 |
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それからは、あいだに経験豊かな人が入って、 どんな食べ物を持っていくべきかといった話がなされ、 なんと事故が起こってわずか5日後に、 その社長である私の友人や、幹部の社員、 それから亡くなったお子さんのご両親や親戚が 同じ食卓を囲んで、お昼を共にしたそうなんです。 これはアメリカだと考えられない話です。 |
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はい、はい。 |
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昼食会では、ひとりずつが弔辞のように その子のことを想ってスピーチをしました。 たとえばその子のお父さんが 亡くなった子の写真を持って 「死んでしまって、本当につらい。 さびしい。また会いたい」 といった話をしたりとか。 その場にいる人たちが 亡くなった子供のことを想って みんな、泣いているわけです。 そして、私の友人にも スピーチの番がまわってきたそうです。 彼はもう、あとで振り返っても あんな辛いスピーチをしたことはなかったと 言っていましたけれど、 絞り出すように 「‥‥自分にも子供がいます」 と、はじめたのだそうです。 そして、 「だから、突然に子供を失う気持ちというのは ほんの多少ですけれども、 私にも察することができます。 今日はこうして食べ物を持ってきましたが、 こんなものはお子さんの命に比べたら、 ほとんど価値のないものだと思います」 と、そんなスピーチをしたそうなんです。 |
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はあああー。 |
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言ってみればこれは、 感情の処理をとても重視した 「対立」の解消方法であるわけです。 その場でお互いに泣くことによって、 互いの痛みが共有できますし、 亡くなった子供の家族や親戚たちからしても、 社長である私の友人が 「ことが無事済んでよかった」みたいに軽々しく 思っているわけではないとわかります。 また、その社長や、事故を起こした社員自身も 「ひどいことをした」という心の傷を 過度に背負うことなく暮らしていけます。 |
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はい、はい。 |
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こんなふうに、伝統的社会では 「対立」が起こったときに 「お互いの感情をどう処理し、 どう落ち着かせるか」に重きをおきます。 ですが、先進国においては 「どちらが正しいか、間違ってるか」が何よりの争点で、 それぞれの感情の処理には まったく思いをめぐらせないんですよね。 |
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伝統的社会と先進国の社会について、 ダイアモンドさんは、どちらがいい、などとは 書かれていないわけですよね。 |
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まさに、本では全編を通して 「どちらがいい」という話はしていません。 ただ、個人的にいいなと思うところは それぞれにあります。 たとえば先進国の社会の方が、 人々の寿命がはるかに長いです。 また、初めて会った人とも お互いに学びあえるのも、 いいところだと思っています。 今日も糸井さんと私は初めて会って こうしてお話ししていますけれど、 もし伝統的な社会であれば 知らない人同士が会うというのは、 会ってから1分以内に糸井さんが私を殺すか、 私が糸井さんを殺すか、でなければ互いに逃げるか、 どれかだったはずですから。 |
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(笑) |
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一方私から見て、子育てのあり方や、 危険をよりクリアに捉える力というのは、 逆に伝統的社会の方に先進国の社会が 学ぶところがあるように思います。 また、電話などの間接的なやり方ではなくて、 みんながとにかく 直接会ってたくさん話をする習慣とか、 老人がみんな幸せそうに見えるというのも、 私はとてもいいところだと思います。 |
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うん。そうですね。 |
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ただし、自分のことを思うと 私はロサンゼルスで暮らして、 ときどきニューギニアを訪れているわけで、 逆ではないんですね。 だから、それが自分の選択でもある、 ということなんだとも思います。 物理的な便利さや、音楽をたのしめることとか、 子供たちの教育のことを考えて、 私はそういうやりかたを選んでいるんです。 |
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ええ、ええ。 |
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まあ、物理的にはだいたい 自分の時間の9割をアメリカで過ごしながらも、 気持ちは9割、ニューギニアなんですけど。 |
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(笑)はい。 (つづきます。) |