今から16年前の、1998年。
高校1年生だった私は、
東京都内の3本の電車を乗り継ぎ通学していました。
当時、電車に乗ることが何より苦痛で、
通学時間は毎日、
恐怖との戦い。
その理由は、
1995年に起こった地下鉄サリン事件。
東京で暮らす私には
現実に起こった恐怖として影響を与えました。
ホームで電車を待つ時点から常に周りを警戒し、
私の独断と偏見で怪しそうな人が近くにいたら
乗り場所を替え、
車内にコンビニのビニール袋を持っている人がいたら
車両を移動。
満員電車で移動したくてもできないときは、
次の駅まで息を止め、
ドアが開いた瞬間、
逃げるようにホームへ飛び出して息をする。
そんなことをくり返し、疑うことがクセになり、
社会とは信用できない場所なんだと勝手に絶望し、
学校という狭い社会にも窮屈さを感じる日々。
なぜ毎日同じ場所に通って
皆で同じようなことをしなきゃいけないのか、
どうすれば自由になれるのか、
その理由や答えを毎日探していました。
そしてある日、
レンタルショップで借りてきたCDの中から
聞こえてきたフレーズに、
私の探していた理由や答えを軽々と超える、
「当たり前だけど気づかなかった新しい視点」
を見つけました。
雨だって
雲の上へ飛び出せば
Always blue sky
この曲、
宇多田ヒカル『time will tell』の
このフレーズを聞いた瞬間。
ずっと私の頭の中にかかっていた分厚い雲の上には
青空があるんだと気付き、
久しぶりに深呼吸ができたんです。
以来毎日この曲を聞くようになり、
CDの歌詞カードをコピーして、
手帳のいちばん後ろに挟んで持ち歩くようになりました。
耳から入ってくる情報を遮断したくないという危機感から、
電車の中でイヤホンをして
音楽を聞くことができなかった私は、
どうしようもなく呼吸ができなくなると
歌詞カードのコピーを取り出しました。
雨だって
雲の上へ飛び出せば
Always blue sky
太陽だって
手でつかめるぐらい近くに感じられる
呪文を唱えるように何度も読んでは、
このフレーズを頭の中で映像にすることで
落ち着くことができました。
そのうち、コピーを取り出さなくても
歌詞を唱えられるようになり、
辛くなったら
雲の上に広がる無限の青空へ飛び出すイメージで、
今囚われている辛さを俯瞰で見られるようになりました。
電車に乗ることが恐怖だった高校時代も過ぎ、
大学生になる頃には普通に電車に乗れるように。
私の頭の中にかかっていた分厚い雲は、
だいぶ薄くなっていました。
生まれたばかりの赤ちゃんのころには、
きっと雲ひとつない青空が私の中に広がっていたのに、
家庭や学校、社会の中で人と関わることが増えるにつれ
雲がモクモクとあらわれ、
自分で青空を覆い隠していたんだと思います。
それは、
自分に素直でいることで
周りから注意されたり、
否定されることで傷ついたり、
理由もなく無差別に傷つけられることもあるんだと
知るうちに増えていった雲。
雲が増えれば当然雨も降り、
自分で降らせた雨に打たれながら
どうすれば晴れるのか、
途方に暮れていたときに『time will tell』が
青空を思い出させてくれました。
どんなに激しい雨が降ろうが、
雲の上には必ず青空が広がっている。
ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかないときでも、
雲は必ず流れていくもの。
自然に移ろう世界の天気はコントロールできないけど、
私の中にある青空は私次第で広げることができる。
これに気づけていなかったら、
今も私は雨を降らせ続けていたかもしれません。
そして、辛いから雨が降るんだと思っていたけれど、
恵みの雨として成長には欠かせないものだということも
この曲を聞くたびに感じるようになりました。
私にとって
「心を動かされる」
という表現を初めて体感したのが
『time will tell』。
いつどこでどんなときに聞いても、
雲の上の青空に連れて行ってくれて
揺るがない安心を与えてくれる。
曲に出会ったときは「強烈に好き!」だったのが
時間が経つうちに
自然とそばにいるパートナーのような存在になり、
「しみじみと、好き」なものになりました。
これからもずっと私の青空を守ってくれるこの曲を、
しみじみと好きでいられる自分を大切にしたい。
そう思わせてくれる『time will tell』は、
私の中で揺るがない、譲れない、好きなものです。
(Photo by Barta IV/Flickr)