自分の中であまり自信のあるものは多くはないけれど、
「服」に対してはそこそこ自信がある。
ただ「服に対する自信」と言っても
「自分が”おしゃれ”である自信」ではなくて、
「自由にストレスなく自分を表現できる手段を持っている
という自信」である。
元々ぼくは引っ込み思案で、
口下手で、集団行動も得意じゃない。
運動も、歌も苦手だ。
おまけに身長も小さくてそんなにかっこいい方でもない。
のほほんとしていてドジも多い。
小さい頃はそんな僕とは対照的に、
人気者でセンス抜群のイケメンの兄と、
8つも年が離れたかわいらしい末っ子の妹に挟まれて
むくむく承認欲求を膨らましていた。
そんな僕も思春期になると、少し色気が出てくる。
人並みにカッコよくなりたいし、モテたいし、
「イケてる人」だと思われたい。
自分という素材はすでに述べた通り、
そんなに期待できたものではない。
でも服という手段を使えば
なんとかなるかもしれないと思った。
兄が持っているファッション誌を隠れてむさぼり読んで、
手持ちの安い服でなんとか実現できそうな
近しいコーディネートをよく盗んでいた。
中学校では制服だっただけに、
休日に私服で友人と会う時の気合はものすごかったと思う。
今思えばかなりちぐはぐな恰好な気がしてこしょばゆい。
高校生になって、
勇気を出してセレクトショップにも行き始めた。
そこにあるのは高くてカッコいい服ばかり。
でも通い始めて少し経った頃、
明らかに周りの服と違う半ズボンと目が合った。
パッと見はふつうだけど、うしろを見ると、
昔実家で赤ちゃん用の毛布としてあったような、
花柄のフェルト生地のポケットがついている。
そこには計算され尽くした「ダサさ」と、
決して憎めない「かわいらしさ」があった。
少なくとも今までむさぼり読んできた
ファッション誌にはこんな世界観は
なかったから衝撃だった。
ファッションの世界では当然だと思っていた
「カッコいい」を目指す流れに対して、
一人優しく穏やかにアンチを張っているような
その感じが、なんだかとても崇高に思えて、
すぐにそれを買った。
自分で言うのもなんだけど、
正直かなり似合っていた気がする。
周りからの評価も上々だった。
その一着をきっかけに、
「そもそもカッコよくないんだから、
カッコよくならなくてもいいや」と思えて、
自分の中でファッションがすごい自由になった。
もうファッション誌も流行も気にしない。
ドジでのほほんとしている自分と共鳴する服を
選べばいいと思えるようになった。
「カッコいい」服は似合わないし、
「カッコよく」もなれないけど、
そんなぼくだからこそ似合う服がある。
それは「カッコいい」人にはマネできないぼくの武器。
「ダサかわいい」というジャンルがぼくの中で確立された。
ふっ切れたら自分に自信も出て、
コミュニケーションも少し変わっていった。
「カッコいい」ファッションを目指していたときには、
「自分もカッコよくならなきゃ」と服につられて
気取ったりして、どうもちぐはぐな感じがしていた。
「クール」とか「カッコいい」は、
ともすれば相手に距離感を感じさせてしまう。
よく考えたら、引っ込み思案で口下手、
ほんとは人とつながりたい欲が人一倍のぼくが
距離感を感じさせたらちょっとやばい。
でもその点、「ダサかわいい」服はよく機能した。
計算高くていやらしいかもしれないけど、
「ドジ」とか「シャイ」とかいったところを
「憎めない」にポジティブに転換してくれる。
今までそういった性格は弱点だと思って
自分に自信がなかったけど、
「ダサかわいい」服を盾にして、
ぼくはぼくらしく
じわりじわりと社会に自分を組み込んでいった。
そんな服を纏っていると、気張らなくていい。
ぼくはあなたに全く敵意はないですよ、
とアピールする。
相手もぼくに対するハードルを下げてくれるから
すぐに仲良くなれる。
そんな「ダサかわいい」服のおかげもあってか
小さいころは内向的で親から不安がられていたぼくも
今はありがたいことにたくさんの友達ができて、
そこそこ楽しくやっている。
歳を重ねて大人になってきて
少しずつ出番は減ってきたけど、
自信のない自分を守ってくれる盾でもあって、
相手の警戒心をほどく武器でもあった
「ダサかわいい」服はなかなか捨てられない。
こうしてこの文章を書いている中、
ふとクローゼットを見ると
ぼくを支えてきた実績を持って、
「ダサかわいい」服が
なんだか誇らしそうに佇んでいるように見える。
愛着が湧いてきたので
また今度久しぶりに着てあげよう。
(おわり)