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第0回寝息から伝わる〝生きていることの実感〟 2017-04-18-Tue

ライター/編集者。函館と東京を行ったり来たりしながら、インタビューをしたり、文章を書いたりしています。
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親と子と寝息の話

親と子と寝息の話

担当・阿部光平

何かを好きになるまでには様々な過程がある。
 
出会った瞬間に好きになることもあれば、
深く知ることでだんだんと好きになっていくこともあるし、
気づいたら好きになっていたというパターンもあるだろう。
 
中には、「嫌いだったのに、好きになってしまった」という
ちょっと珍しいケースもある。
 
僕の場合は、箱根駅伝や、水木しげるさんの絵、
そして、〝家族の寝息〟なんかが、それにあたる。
 
あんなに嫌だった家族の寝息のことを、
こんなに好きになる日がくるとは思ってもみなかった。
 
寝息って、なんて愛おしいんだろう。

寝息から伝わる〝生きていることの実感〟

「好き」というのは、
揺るぎないように見えて、
案外、脆い感覚なのではないかと思う。
 
夢中で追いかけていたバンドに対する情熱が、
いつの間にか失われていたというようなことは
決して珍しくないし、
お互い好きで好きでどうしようもなかった恋人同士が、
「顔も見たくないくらい嫌い」などと罵り合った末に
離れ離れになっていくなんてことも世間じゃよくある話だ。
 
きっと、「好き」は揺らぐものなのだ。
熱量や本気度とは無関係に。
 
一方で、「嫌い」というのは、
なかなか揺るがない感覚ではないだろうか。
食わず嫌いならともかく、
きちんとした理由のある「嫌い」は、
そう簡単に覆るものではない。
だって、そこには好きになれる要素がないのだから。
 
 
実家に暮らしていた頃、僕は親の寝息が嫌いだった。
うちの両親は、そろって寝息が荒いのだ。
 
うるさくて寝られないというほどではないが、
音楽を聴いたり、漫画を読んでいるときに、
隣の部屋から「グー」とか「ガー」とか聞こえてくると、
気が散って、イライラした。
 
特に嫌だったのは、親戚が集まって一緒に泊まるとき。
みんなが寝ている部屋で、
うちの親が「ぐーすか、ぴーすか」と寝息をたてているのが
とても恥ずかしいことに感じた。
 
友達が家に泊まりに来たときも、そう。
同じように「ぐーすか、ぴーすか」が恥ずかしかったのを
よく覚えている。
 
わざとではないから文句の言いようもないのだけど、
思春期の僕にとって、〝親の寝息〟は、
自分で穴を掘ってでも埋めてしまいたいくらい
嫌いなものだったのだ。
 
 
だけど、その感覚は自分に子どもが生まれてから一変した。
 
うちの娘は、夜泣きが激しくて、
寝かせるのにいつも苦労していた。
ようやく寝付いたと思っても、
2、3時間後には目を覚ましてギャンギャンと泣き始める。
 
その度に心も体も擦り減っていたが、
不思議なことに、その苦労は子どもが眠った途端に
キレイさっぱり忘れてしまうのだ。
たとえ、2、3時間後にはまた泣くとしても、
スヤスヤと寝息をたてて眠っている姿を見ると
心の底からホッとする。
それは、夜泣きから解放されたという感覚ではなく、
子どもがようやく安心して眠れたという安堵感だった。
 
そこで初めて、僕は、
寝息を聞いていることの心地よさに気づく。
すぐ側から気持ちよさそうな寝息が聞こえてくるだけで、
起きているこっちまで穏やかな気持ちになってくるのだ。
それは子どもの寝息に限った話ではない。
妻の寝息だって、多少賑やかでも、不思議と心地いい。
安心しきって眠っているということが、
寝息を通じて伝わってきて、
隣にいる僕の気持ちをほぐしてくれる。
いつの間にか、家族の寝息は、
僕に安らぎを与えてくれるものになっていた。
 
寝息をたてるというのは、
それ自体が〝生きていることの表れ〟のようだなと感じる。
他人の〝生〟を実感させてくれるのは、
鼓動よりも、呼吸なのではないだろうか。
少なくとも僕はそう思う。
 
そう考えると、あんなに鬱陶しいと思っていた
親の寝息の受け止め方も変わってきた。
実家に帰って、
「ぐーすか、ぴーすか」といつもの寝息が聞こえてくると、
「お、今日も元気に寝てるな!」と思うようになったのだ。
 
単なる雑音としか思っていなかったのに、
今では、言葉以上に〝いつも通りであること〟を伝える
メッセージのように感じられる。
「好き」と同じように、
「嫌い」という感覚も揺らぐことがわかった。
 
 
毎晩毎晩、夜泣きしていた娘は、
この春で3歳になり、さほどグズらずに寝るようになった。
 
感じたことを自分の言葉で話せるようになり、
いつまで経っても布団から出てこない僕に向かって、
「おっとう、ねんねのとき、ぐーぐー、うるさかったよ!」
などと言ってくることもある。
子どもにとって、親の寝息は
うるさいもの以外のナニモノでもない。
そのことは、僕も身をもって理解している。
だけど、僕は娘に向かってこう言う。
「元気に寝てるんだから、うるさくてもいいの!」
 
娘は「なんだー、それー!」と受け流して、
そんなことよりも早く起きて遊ぼうと
パジャマの袖を引っ張る。
すると、下の子も一緒になって、
僕の頭をバンバン叩いてきたりする。
 
僕は「もう少し寝かせてー」と言って枕に顔を埋めるが、
その度に、遊んでほしくて父親を叩き起こしていた
子どもの頃の自分の記憶が蘇ってくる。
休みの日に朝から遊んでくれとせがむ僕に対して、
父もよく「もう少し寝かせてー」と言っていた。
父は、眠い目をこすりながらも起きて遊んでくれたけど、
自分も父親になって、あのときの父の頑張りがよくわかる。
「しんどいなー」と思って枕に突っ伏す僕を、
昔の父が「俺は起きて遊んだけどな」と挑発してくるような
気分だ。
 
子育てというのは、
親が自分にしてくれたことの追体験なのかもしれない。
娘もいつか、自分の子に叩き起こされたり、
寝息がうるさいと言われるのかと想像すると、
笑っちゃうような、少し切ないような気持ちになる。
 
いくら好きだとしても、家族の寝息というのは
いつまでも近くで聞いていられるものではない。
だから、せめて、子ども達と一緒に寝られるうちは、
寝息が与えてくれる安堵感に浸りたいし、
親には、これからもなるべく元気に寝てほしいなと思う。
そうしていてくれるだけで、
僕はとても幸せな気持ちになれるのだ。
 
家族の寝息って、なんて愛おしいんだろう。
 
 
(おわり)