もくじ
第1回憧れを抱く日々 2017-04-18-Tue
第2回実践の日々 2017-04-18-Tue

1981年生まれ。東京生まれ東京育ち、一時期京都、いま東京。

愛すべき坊主頭の日々

愛すべき坊主頭の日々

担当・大城和美

いつかやってみたいこと。それは、坊主。
私が10代の頃から憧れていたのは、頭を丸めることでした。
‥‥あ、出家ではなくて、ヘアスタイルの話ですよ。

坊主頭になるには、バリカンと30分ほどの時間さえあれば十分なはずなのですが、
普通の会社で働く女性としては、実行するまでには結構高いハードルがありました。
チャンスを待つこと8年。
やっと実現した坊主頭の日々を過ごして、感じたこと、わかったことを書きました。

第1回 憧れを抱く日々

「坊主になりたい」。
最初にそう思ったのは、19歳の秋でした。

当時大学1年生の私は、男性は長めの学ランで活動する
若干硬派な応援系の団体(サークル)に所属していました。
その団体は、大声を出す部門と、楽器を奏でる部門と、
笑顔で踊る部門にわかれており、
私は、笑顔で踊る部門の一員でした。

11月のある日、私の憧れの先輩が、
髪をバッサリ切って丸刈りになりました。
1年のうちで一番重要な活動の本番に向けて、
気合を入れるためです。

なんてカッコイイのだ‥‥!
学ランと坊主頭の凛々しく、堂々とした姿に、
「私も、坊主に」という思いが膨らみました。
そして、大声部門や楽器部門の同級生やほかの先輩は、
次々と頭を丸めていきます。
もちろん、気合を入れるためです。
日に日に坊主頭が周りに増えていきました。
気合が大好きな団体なのです。

もちろん私も、一緒に気合を入れたかった。
けれど、その気合を入れて臨むべき応援的活動において、
学ランではなく、ミニスカートのユニフォームを着て
笑顔で踊らなくてはならない私には、
坊主頭は許されないことでした。
笑顔で踊る部門の長から
「坊主絶対禁止」と強く言われたのです。

その後もめげずに、
「隙あらば坊主に」とは常に思っていたものの、
学年が上がっても、坊主禁止の状況は変わりませんでした。
坊主にする隙も見つかりません。

古今東西のラブストーリーが教えてくれるとおり、
障害のある恋愛は、むやみに盛り上がってしまうものです。
坊主になることが許されないからこそ、
私の坊主熱はいっそうアツくなりました。
「坊主がダメなんて、気合が入ってない証拠じゃないか。
上の人たちは、わかってない!」と憤ることもあるほどに。

しかし3年後、自分でも意外な変化が起きました。
私自身が4年生になり、リーダーの一員として
活動に真摯に向き合い、責任を感じるようになるほど、
「客観的に考えてみると、やっぱり坊主頭で踊るのは
よろしくないなぁ」という思いが強くなってきたのです。
はじめは同じところにあったはずの、
坊主に対する気持ちと、
活動において大事にしたいものとの間に
距離ができてしまっていました。
結局、「坊主にしたい」という思いは、
学生時代に成就することはありませんでした。

そうして失意のままに大学を卒業し、
私は社会人になりました。
その頃には、当初の
「気合を入れるために坊主頭にしたい」
という気持ちは、すでに形を変えていました。
「気合は特に必要ないが、坊主頭にしてみたい」。
私は、ピュアに坊主頭そのものを追い求めはじめたのです。

けれど、私は今や会社員。
入社した会社では、
坊主頭が有利に働くことなど特にないどころか、
社内でも社外でも誤解を与えてしまう危険性が高く、
坊主実行にいたる道は、より険しくなりました。

「坊主にいたる道はただひとつ。頭を刈るのみ」。
頭ではわかっているのです。なのに、できない。
飲み会で酔っ払ってくると、
「一度坊主頭にしてみたいんですけどね〜、
やっぱりダメですかね〜」とブツブツ言う私がいました。
そして案の定、上司や同僚には反対されました。

状況は変わることなく、それからまた数年が経ちました。 
そんなこんなで、なんやかんやあり、
私は結婚し、妊娠しました。
幸い妊娠経過は順調で、産休に入ることになりました。
27歳の秋。
産休。つまり、しばらくは会社から離れます。
そして目の前には、はじめての出産。
相当に気合を入れなければ、乗り切れないかもしれません。
思いがけず、
あの頃のように気合まで必要になってきました。

今だ、今しかない!

ついに、私は坊主になるチャンスを得たのです。
産休前の最終出勤日を終え、バリカンを用意。
夫に髪を5mmに刈ってもらいました。
この断髪式は、結婚式も披露宴もしなかった私たちにとって、
はじめての儀式めいた瞬間でもありました。

晴れて心願成就。
私は、坊主頭になれたのです。

第2回 実践の日々