小学生のときは、人の前に立つ経験をたくさんした。
前に出ることや、目立つこと自体が
好きだったのではない。
「やりたい人」と先生がきくことに、
なんでも手を挙げていたのだ。
運営委員とか、応援団とか、
候補を募るものは、
人の前で話すことが多いものだった。
立候補をすると、
経験したことのない世界にふれることができる。
それが、何より楽しかった。
手を挙げてやってきた中で、
人の前で話すことへの思いが芽生える。
授業でジェスチャーをやったときだった。
原稿のない中で、
体を使って、人に表現を向けること、
自由に自分の考えを伝えようとすること、
出すことを、初めて体験する。
ジェスチャーを通じて、
私は、クラスメイトに語りかけようとしていた。
今まで感じたことのない喜びが、
体の内側から湧き上がるのを感じた。
ジェスチャー自体は伝わらずに、
一方通行の語りかけになっていたけれど。
(授業中にトイレに行きたいことを
先生に目で訴える生徒を演じた。)
小学生のころは、まるで、新たな冒険の地図が
広がっていくような感覚で、様々な体験をした。
ジェスチャーを終えたときには、
私の冒険の地図は、
どこまでも、限りなく広がっているように思えた。
冒険の地図の中に看板を立てる。
そんな冒険の地図に、「看板」を立ててしまったのは、
小学6年生のとき。
私は、クラスのリーダーに立候補した。
いつものように、選ばれると思っていた。
私の隣の席には、
お互いの家に遊びにいくほどの仲の友達がいた。
その友達の投票用紙が見えてしまった。
そこには、私の名前は書かれていなかった。
‥見えてしまってからは、投票結果は、
もう、取るに足らないことのように思えていた。
リーダーに選ばれたのは、
クラスの中でも目立つ人気者。
「人気者でないと、前にはでられないし、
友達も離れてしまうんだ。」
そんな思い込みから、
自分ひとりの冒険の地図を、
好きなように広げていくことに対する
怖さを感じるようになる。
「人の前に出たり、
目立つ道に進むことは危険なんだ。」
‥手をあげなくなると、
人の前で、表現をしたり、話したりすることは、
あまりなくなった。
次第に、自分が決めた自分の型に
どんどんはまっていくようになった。
私は、前に立つような人間じゃない。
自分には向いていない。
私にとって、それは“苦手な”ことなんだ。‥
冒険の地図の上で
せっかく見つけた、好きの道に、
「苦手」と書いた看板を自ら立てて、
先に進まない選択をした。
いつの間にか、私の好きなものは、
運動になっていた。
それは、得意なことでもあったから。
(つづきます)