ある夏の夜のこと。
乗り換えのために、電車を降りて、
ホームの端から階段に向かって歩き出したとき、
―ごろごろ、ごろごろ
という乾いた音がした。
とても近くから聞こえた気がしたので、
わたしはなかば無意識に
「スーツケースを転がす音かな」と判じた。
実際、いま思い返してみても
それにとてもよく似た音をしていた。
わたしはちらりと音のするほうを見た。
すると目に飛び込んできたのは夜空に浮かぶ光だった。
花火だ。
花火が、近くではどおんとおなかに響くように鳴ることや、
遠くでは雷のように聞こえることは知っていたけれど、
こんな距離では、ごろごろ、ごろごろと、
スーツケースのキャスターそっくりの音がすると知って
驚いた。
そういえば、今日はこのあたりで花火大会があったのだ、
とわたしは思い当たった。
この不意打ちに思わず胸を衝かれて立ち止まった。
ホームの端には、絶好の観覧スポットと知ってか知らずか、
いく人かのひとが立ち止まって
花火の打ち上がる方向を見ていた。
わたしも、そのゆるやかな輪に加わった。
花火が絶え間なく打ち上がり、広がり、消えていく。
会社帰りのサラリーマン、
よれよれのTシャツの若者、
女子高生。
みんな静かにその光景を眺めている。
花火をこうして偶然に、
家族や友だちと一緒に、ではなく、
知らないひとたちの中で見るのは、
初めてのことだった。
不思議と誰も騒がないし、誰も携帯電話を取り出して
カメラをかまえたりしなかった。
ただじっと、出会えた喜びをかみしめるように
暗い空を見つめ、
次に打ち上がる花火を待っているのだった。
まもなくアナウンスとともに向かいのホームに
列車がすべりこんで花火が見えなくなると、
ひとびとは三々五々、
階段へ向かって歩き出したり、新聞に目を落としたり、
それぞれの流れに戻っていった。
しかし、その場にはたしかに優しい余韻が
ただよっている気がした。
***
わたしは、これに似た光景を知っている、と思った。
それは、アメリカ旅行で体験したサンライズツアー、
つまり日の出を見に行くツアー。
海外旅行のツアーでは、景勝地でサンライズを見ることが
しばしば主役級のイベントに位置づけられている。
わたしが参加した旅も、
グランドキャニオンの雄大な風景の中で日の出を見る
というプランになっていた。
まだ暗いうちに、宿泊していたロッジを出て
その場所につくと、
すでにサンライズ目当てのひとが集まり始めていた。
世界的な観光地だから、いろいろな国のひとがいる。
短パンにタンクトップ、サングラス姿のアメリカ人、
立派な三脚を構えた日本人、
ヨーロッパのどこかの国のカップルたち。
岩場に腰掛け、あるいは木陰に佇み、
みんなが思い思いの場所で、同じ一点を見つめている。
朝起きて夜眠るふだんの生活の中では、
ほぼ見ることがない夜明けの瞬間。
真っ暗なところからだんだん明るくなっていくのは、
安らかな闇の中からくっきりと照らし出されて、
世界に独り立たされるような感覚があった。
しっかり立てと叱咤されるような気持ち。
それでいて太陽の光の暖かさに励まされるような気持ち。
世界は、まるで死と生のようなこんなプロセスを、
わたしが知らない間にも毎日繰り返していたのか、
と思う。
やがて、
まぶしくて直視できないほどの太陽がすっかり姿を現すと、
魔法が解けたようにひとびとは散っていった。
***
互いに知らないひとびとが、ほんのいっとき同じ場所に集い
一心に同じところを見つめ、同じものを待っている。
なにか美しいものを、じっと待っている。
それはなんという平和だろう。
そしてどうして少し切ない気持ちがするんだろう。
駅のプラットホームで見た花火のように、
それは奇跡のように出会うこともあるけれど、
もっと身近なところにもたくさんある。
たとえばスポーツにはそういう瞬間があふれている。
オリンピック。箱根駅伝。甲子園。
その一球が放たれる瞬間を、静かに駆けていく姿を、
待っているひとびとがいる。
「その瞬間」は、真っただ中だけとは限らない。
たとえば、ロックバンドのライブ。
開演時間よりもずいぶん早くから、
大勢のひとが同じ会場を目指してやってくる。
周りを見回すと、
すぐ友達になれそうな雰囲気のひともいれば、
自分とはまったく接点のなさそうなタイプ
のひともいたりするけれど、
今日、同じ音楽を聴くためにここに集まっているのだ、
と思えば、頼もしいような気持ちがする。
会場に入ってからは、ざわめきの中に身を置いて
じりじりと時間が過ぎるのを待つ。
やがて定刻が来ると、BGMが止み、気配が変わる。
観客は、そのひとの登場をいまかいまかと待ちわびる。
時には待ちきれなくなった観客から手拍子が始まる。
いざ、その時。
強いライトがステージを一斉に照らして、
そのひとのシルエットがくっきりと浮かび上がる。
歓声がとどろく。
最初の音が鳴る。
クラシックのコンサートの始まりには、
オーケストラは舞台上で音合わせ(チューニング)をする。
コンサートマスターが起立して、オーボエがラの音を出す。
すると、弦楽器の音が順に重なり、
さらに木管楽器、金管楽器と、
しだいに音は大きく複雑になっていく。
オーケストラ全体がめいめいに音を鳴らして、
儀式めいた音合わせは最高潮に達する。
しかしそれはほんの一瞬で終息する。
客席の咳払い、プログラムの紙のめくられる音も、
これに合わせるように静まる。
そして指揮者がタクトを振り上げ振り下ろすまで続く、
無音の集中の引力。
あるいは、映画館。
暗がりの中で、
見知らぬひとびとと肩を並べて映画の世界に入り込む。
ほとんどの時間は物語に集中しているけれど、
ふと、ほかの観客の存在を感じるときがある。
それは、一斉に笑ったり驚いたりする瞬間とは限らない。
なんでもないシーンのときに、
じっとスクリーンに集中している前後左右のひとの存在を
たしかに感じている。
ああ、わざわざこの場に足を運んで、この時間を捧げて、
ともにこの作品を感じているひとたちだ、と思う。
そして物語の幕が閉じたあとはエンドロールが流れていく。
知っているひとの名前より、
知らないひとの名前のほうがずっと多い。
職業も、聞いたことがないような
たくさんの仕事が出てくる。
こんなにも多くのひとが関わって作り上げた作品を、
いま受け取ったのだと思うと
畏れに近い気持ちがわく。
ここに名前を刻んだひとたちは、
どういう経緯でここに参加することになったのだろう、
などと想像したりもする。
エンドロールの途中で席を立って帰っていくひとも
中にはもちろんいるけれど、多くはそのまま残っている。
映画のワンシーンを思い返して涙を流すひともいれば、
映画館を出た後どこで夕食を食べようか考えながら
ぼんやり見ているひともいる。
それでも、席を立たずに
同じ暗がりの中で時間を共有しているということは、
不思議な連帯を感じさせる。
劇場で観る芝居には、
エンドロールの代わりにカーテンコールがある。
舞台上で生きていた役から、
自身に戻って現れた役者たちに降り注ぐ拍手。
言ってしまえばまったくの虚構である物語を演じ、
舞台装置をつくりあげ、
真剣に観客を楽しませようとしているひとたちが、
それを求めて来たひとたちと向かい合う時間。
「見に来てくれてありがとう」
「見せてくれてありがとう」
お互いにエールをおくりあっているような気持ちがする。
カーテンコールは、たいてい1回では終わらない。
拍手に応えて、役者たちは何度も姿を現わし、
観客は名残を惜しむ。
まれに、役者たちがすべて袖に消えて幕が降りても
拍手が鳴りやまないことがある。
誰もいない舞台と、いつまでも続く拍手。
演劇という営みそのものに捧げられているような拍手は
尊くて幸福そのものだ。
***
見知らぬひとと肩を並べて、美しいものを待ちわびる。
そうして迎えたその瞬間を無言のうちに共有する。
そういう時間がわたしは好きだ。
スポーツ、映画、音楽‥‥、
それらを求めてその場に足を運ぶとき、
わたしはたぶん、
この「美しいもの」を味わいたい、とも思っている。
それは人生そのものに求めるものでもある気がする。
時間を共有できることの喜び。
生きている喜び。人間であることの喜び。
細胞が静かに沸騰するような喜び。
それは、まったく異なる存在である「他人」
という壁もなんなく越える。
自分という枠も越える。
そして、そのひとつひとつはおそらく永遠には続かず、
ほとんどは花火のように一瞬で消えていく。
それでも何度も何度も、
意思と情熱あるひとびとの力で作り出される。
何度でも受け取りたいし、居合わせたい。
そしてわたしも、
「花火を打ち上げる側」になって、
これまで受けたものを別の誰かに返したい、と願う。
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上映後、主催あいさつ
エッセイをお読みいただきありがとうございました。
ほぼ日の塾、ふたつめの課題は
「『私の好きなもの』をテーマとした
テキストベースのコンテンツ」
でした。
わたしが好きなのは、映画やお芝居を観ることです。
友だちや家族とも行くし、それより多くひとりで行きます。
音楽のライブにも年に何回かは行きます。
つまり、プレイガイドでチケットを買うような、
いわゆる「エンタメ」と呼ばれるものが
好きなのだと思います。
そして、それをつくるひとに対して
強く、憧れと尊敬の気持ちを抱いています。
どうして惹かれるのか、どのように惹かれるのか。
そのわけを、あらためて考えながらエッセイを書きました。
ところで、この課題に取り組んでいるあいだ、
わたしが住む街の桜並木が満開になりました。
子どものころは、春になったら桜が咲くのは当たり前で、
とくになんとも思っていませんでした。
少し大人になると、桜が咲くのが楽しみになって、
そろそろ開花だと聞けばそわそわと、
いつお花見に行こう、などと思うようになりました。
そして、花の季節があっという間に過ぎるのを
惜しむようになりました。
それでもまだ、意識は桜という花自体にあったのに、
最近では、「桜を見るひと」の側に
感慨を寄せるようになってきました。
その心の変化は、
わたしが映画やお芝居に対して抱く心とも
つながっているようです。
街を歩けば、老若男女が満開の桜を見上げています。
それぞれがどんなことを思いながら桜を見上げているのか。
想像しながら、
今年もまた満開の光景を見ることができる喜びをかみしめます。
(おわります。)