- ──
- 先週は春の発表会、お疲れ様でした。
- 登先生
- 今年も無事終わりました〜。
- ──
-
終わったばかりのところ、今日はありがとうございます。
お会いできて嬉しいです。
- 先生方
-
いえいえ!

(左から、絢子先生・登先生・崇太先生)
- ──
- 発表会のある春と秋は、観に行くのを楽しみにしてるんです。
- 登先生
-
ありがとう。
こうやって、今も来てくれる卒業生は多いんだよ。
子どもを連れてきて、
いつの間にかお母さんになってる子もいるし(笑)
- ──
-
幼稚園の時から習っていたりすると、
「あの小さかった○○ちゃんが」って驚いちゃいますね。
- 登先生
- そうなんだよねぇ。
- ──
-
2014年で、教室は創立60周年でしたよね。
その祝賀会にはOGの方も大勢いらしていましたが、
これまでで、生徒数はどれくらいになったんでしょう?
- 登先生
- えぇと・・3000人は超えたのかな。
- ──
- 3000人以上ですか!?
- 登先生
-
そうだね。子ども達だけじゃなくて、
大人の生徒も合わせた数ね。
- ──
-
大人向けのクラスもありますもんね。
でも、3000人・・。すごい数です。
教室はずっと、山形市内ですよね?
- 登先生
-
うん、ずっと市内です。
でも場所は何回か変わっているの。
- ──
-
そうなんですね。
ずっと、私も通ったこの場所かと思っていました。
- 登先生
-
最初はーー。
昔ね、山形駅前の大通りの途中に
青果市場があって、
そこで僕の母が働いていたの。
で、その市場の空いていた2階を使えるようにしてくれて、
教室を始めたんだよね。
- ──
- へぇぇ・・・・知らなかったです!
- 登先生
-
1954年のことだね。
それまで山形で、バレエが習える所なんてなかったから、
とても珍しかったと思う。
でも、何人か子ども達が来てくれたの。
- ──
- なるほど。そこから、教室の歴史が始まったんですね。
- 登先生
-
ただ、駅前は交通量も多くて、
子ども達には危ないなぁと思って。
だんだん次の場所を探すようになったんだよね。
そしたら、山形駅から
少しだけ離れた鉄砲町にあるお寺が、
うちでやらないかって。
- ──
- え、お寺ですか?!
- 登先生
-
そう、お寺さん(笑)
本堂を使っていいよって。
- ──
- えーっ(笑)
- 登先生
-
本堂の床はコンクリートだったから、
そのままでは硬くてとても踊れなくて。
木の板を貼って、お稽古したの。
- ──
- ・・ざ、斬新ですね。
- 登先生
-
うん、とっても変わってた(笑)
それでお稽古してたんだけど、なんせお寺だから、
檀家さんがふつうにお参りに来るでしょう?
そうすると、まるで裸みたいな格好で踊っているのが
本堂から見えるから・・・・
- ──
- あぁ〜・・(笑)
- 登先生
- すごく驚かれちゃった(笑)
- ──
-
確かに、バレエに馴染みのない方も多い時代だし、
びっくりしたでしょうね!
- 登先生
-
そんな感じでお寺も難しくなって、
また場所を変えて、
電電公社(現在のNTTグループの前身)の
組合事務所の1フロアを借りたのが3番目かな。
- ──
-
青果市場にお寺に、NTTの事務所・・・・。
いろんな場所でやっていたんですねぇ。
- 登先生
-
そう。
で、この時はクラシックバレエだけじゃなくて、
コンテンポラリー(現代舞踊)や、
社交ダンスも教えたの。
- ──
-
コンテンポラリーは私たちも習いましたが、
社交ダンスを教えていたこともあったんですね。
- 登先生
-
20代の若い男女が習いにきて、
ちょっとした交流の場にもなったんだよ。
何組かは、結婚もしたしね。
- ──
- おぉ、婚活の元祖みたい。
- 絢子先生
- まだ毎年、ハガキくれたりする夫婦もいるんだよ〜。
- 登先生
-
この時来ていた青年たちには、
社交ダンス以外の踊りも教えてね。
当時は男性ダンサーは、珍しくて少なかったから。
それで男性だけの作品を作ったりしたの。
「コンドルは飛んでいる」っていう南米の民謡、知ってる?
- ──
- はい、知ってます。
- 登先生
-
あの曲に合わせて振りをつけて、
コンテンポラリーの作品にしたの。
衣装も手作りして、コンドルの黒くて大きい翼を作って、
腕につけたりさせた。
- ──
-
へぇ!
そうか、衣装も手作りの時代だったんですね。
- 絢子先生
-
そうだよ〜。
まだ衣装会社が無かったから、ぜーんぶ手作りだった!
そのあと「チャコット」(*1)ができて、
同じ年に、4番目の教室に移ったんだよね。
(つづきます)
*1
バレエ・ダンス用品の大手総合メーカー。
レッスンウェアやシューズ、舞台メイク道具、衣装まで幅広く揃う。