- ──
-
チャコットより先に教室があったことが、驚きです!
チャコットができた年というと・・(調べる)
設立1961年、昭和36年かぁ。
- 登先生
-
4番目は、また山形駅に近い場所に戻って、
あんこ工場の2階だったんだ。
- ──
- あんこ工場。
- 登先生
- そう。
- 絢子先生
- でもねぇ・・。
- ──
- でも?
- 登先生
-
ある日、工場が火事になっちゃって、
教室も巻き込まれて、全部燃えちゃったの。
- ──
- えぇーー! そんなことって・・。
- 絢子先生
-
教室の近くに住んでた生徒から電話が来て
「センセイ、教室燃えてるよ!!」って。
- 登先生
- そうそう。
- ──
- えぇぇ・・。そのあと、どうしたんですか?
- 登先生
-
急いで駆けつけたけど、いやぁ、
もう全然ダメだったのね。
保管してた手作りの衣装とか、
編曲した作品の音楽のレコードとか、
燃えてほとんど無くなっちゃった。
- ──
- うわぁ・・。それはショックが大きかったですよね。
- 登先生
-
当時はまだ、衣装も機材も自分たちで用意してて、
それが全部だったからねぇ。
音楽を流す、幅が50〜60センチくらいの
大きな装置とか、
教室の端に三脚で設置してた、
これまた大きい記録用のビデオカメラとかね。
- 絢子先生
-
テレビ局のみたいに大きいやつね。
あとは、ピンクの公衆電話も、ぐにゃあ〜って曲がってた。
- 登先生
- うん、大変だったねぇ。
- 絢子先生
-
でもちょうどこの時、今の教室にあたる
この場所を借り始めていたから、
なんとか移ってこられたの。
- ──
- 偶然だけど、次の場所がもう決まっていたんですね。
- 登先生
-
ちなみに、バーレッスン(*2)用の
あの白いスタンドは、
焼けずに残ったのをずっと使ってるんだよ。
- ──
-
あれですか?!
年季入ってそうだなとは思っていましたが、
そんな物だったとは。
- 絢子先生
-
実はね!
塗り直しは何回かしてるけど、普通に使っているね。
- 登先生
-
しかも今の教室って、電器屋さんの2階でしょ?
だから、なんとか持ち出せた音楽のテープ何本かは、
見てもらって、修復してもらえた。
- ──
- わぁ〜・・。不幸中の幸いもあったんですね。
- 登先生
-
うん、そうだね。
少しだけ、どうにか助かったものもありました。
- 絢子先生
-
さすがに衣装は作り直しだったなぁ。
チャコットからピンクと白のチュールの布を買って、
40着をちくちくと!
- ──
- ひゃー、気が遠くなりそうです・・(笑)
- 登先生
-
この時ね、工場から今の教室は、
徒歩で40分くらい離れてて、
生徒たちが通うの遠くなるなぁって思ったんだ。
けど、みんな辞めずに付いて来てくれたんだよ。
- ──
- 全員ですか?
- 登先生
-
そう。
30〜40人ほどいたんだけどね、全員。
- 絢子先生
- ね。誰ひとり、辞めなかったよねぇ。
- ──
-
すごい。
でもなんかその気持ちは、わかる気がします。
私もきっと、場所は関係無しに、
先生たちに教えてもらって
踊り続けたいと思いますもん。
- 登先生
-
ありがたいことにね、
そうやってこの場所で、今まで続けてきた感じかな。
- ──
-
教室がずっと続いていて、
生徒が3000人いて、というのは
改めてすごいことですね。
- 絢子先生
-
今山形にいなくても
レッスン時間とか、発表会の時に
「ただいまー!」って顔出す卒業生は、本当に多いよ。
- ──
-
私もそうでしたけど、
習っている間はこの教室が、
学校と自宅のつぎに
長い時間を過ごした場所だったと思います。
学校が終わるとまっすぐ来ていましたし。
第2の家、という感じでした。
- 登先生
-
だから僕たちも「おかえりー!」って迎えるの(笑)
皆、子どものような存在だからね。
- 絢子先生
- 「おかえり」が似合う教室でいたいなって思ってるのよ。
(つづきます)
*2
腰の高さ程度の横長の棒(バー)につかまり、
クラシックバレエの基礎となるステップを一つずつ確認しながら練習すること。