僕が単身上京してきたのは、約2年半前のことだ。
それまでは父と母と一緒に、
名古屋の実家で暮らしていた。
名古屋というと、名古屋駅前の中心街を想像される方も
多いかと思うが、僕が住んでいた守山区というのは、
名古屋市の一番右上に位置する、
静かでのんびりとした街だった。
実家の近くには、巨大なアサヒビールの工場が
あったが、それ以外にこれといって
目立つような大きな建物はない。
その代わりに、いくつかの小さな公園があり、
家のすぐ北側には大きな川が流れていた。
幼い頃は、公園で野球をしたり、
川原で石を投げたりして、日が暮れるまで遊んだものだ。
父と母はいつも優しかった。
もちろん、僕が人を困らせるようなことをしたときは、
かなり厳重に怒られたが、テストの点が悪かったとか、
夜遅くまで遊んでいたとか、
そういうことで怒られた記憶は全くと言っていいほどない。
僕自身は、そんなことを思い出すたびに、
「それをいいことに、はしゃぎすぎた部分があったなあ」
と、申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
色々な場所へ旅行に行ったこと、
毎年元旦に近所の神社へ初詣をしに行ったこと、
季節の行事を大切にしていたこと。
父と母との思い出は僕にとって、
どれも色鮮やかで、かけがえのないものばかりだ。

(季節の行事を大切にしていた父と母。
十五夜にはすすきと月見団子を欠かさず飾る。
一月七日には七草がゆを必ず食べ、
五月五日には湯船に菖蒲の葉を浮かべていた)
そして数ある記憶の中で、僕にとって一番忘れられない
こと。それは、父と母、ふたりが毎日のように
つくってくれた、おいしいご飯のことである。
母は、どんなに忙しい日でも、一切手を抜かず、
いつも一品一品、手の込んだ料理をつくってくれた。
父は、仕事が休みの週末になると、
「今日は俺がつくるからな。楽しみにしとけよ〜」
と嬉しそうに言い、随分早い時間から
夕飯の支度を始めていたものだ。
僕は、父と母のつくる料理が本当に好きだ。
今では、年に数回、帰省したときにしか食べられなくなって
しまったが、
食べられる回数が減ったことでより一層好きになったし、
そのありがたみが身にしみてわかるようにもなった。
東京に戻る日はいつも、
「またしばらく食べられなくなるんだなあ」
と寂しい気持ちが一気にこみ上げてくる。
でも、そんな心情を悟られたくない僕は、
あえて、特に感想を述べることをしない。
「そんじゃ、また正月に」
といった具合に愛想のない挨拶だけを残し、
平然と東京へ戻っていくのだ。
(つづきます)