2000年4月。
小学6年生に進級したわたし。
わたしの学校は、2年に一度、
奇数学年のときにしかクラス替えがないので、
偶数学年のこの年は基本的にメンバーも変わらず、
そして担任の先生も変わらず、
穏やかに始業式を迎えるはずでした。
ところが、わたしのクラスの先生が4月1日の辞令発表で
他の学校へ異動してしまうニュースが飛び込んできたのです。
小学校生活最後の1年。
気心知れたメンバーと、気心知れた先生の指導を受けて
中学校進学への準備をするはずだったのにな。
次は誰が担任になるんだろう。苦手な先生じゃないといいな。
ちょっぴり不安を抱えながら、わたしは始業式へと向かいました。
クラス替えもなく、見慣れた顔ぶれがそのまま揃った教室。
そこに入ってきた新しい先生は、この学校には珍しい若い先生でした。
30代前半、背が高くて、はきはきした感じ。
数年前からこの学校にいたから存在は知っていたけれど、
若いし熱血な感じなのかな。暑苦しい感じだったら嫌だなあ。
そんな不安を抱きながら、小学校最後の年の新学期がスタートしました。
そして、この先生がクラスに来て早々、
わたしたちに恐ろしい課題を出してきたのです。
その名も「グループノート」。
40人クラスを10つのグループに分け、
毎週先生が全員に同じテーマを出題します。
わたしたち生徒は、そのテーマに対して、
毎週決められた曜日に作文を書いていくのです。
与えられる課題は、
「小学校6年生になって」「委員会について」「運動会について」
など、一般的な作文といえるものから
「透明人間になったら」「タイムマシンに乗ったら」
「学校に好きな芸能人が来た日」
といった、もしも作文まで。
グループでノートを順番にまわしていくさまは、
クラスのメンバーとの交換日記のようでもあるのですが、
書いた作文に逐一先生の赤字が入ってきます。
そんなこともあってか、先生との交換日記のような気分にもなる
不思議なものでした。
ところがこの「グループノート」に書いた作文は、
毎週学級通信に掲載され、各家庭にも配布されるのです。
交換日記だったら、当事者同士が見て「楽しいね」と
言っているだけでいいけれど、学級通信に載るということは
他の人に読まれても恥ずかしくない文章でなくてはいけないと
わたしは気付きました。
今まで行事のたびに書いていた作文や、
夏休みの宿題に書いていた読書感想文は
親に見せることなくそのまま先生に出していたし、
自分の好き勝手に書いていたわたし。
でも「グループノート」はそういうわけにはいかないなあ。
「人に見られる文章」「人が読んでも自分が恥ずかしくない文章」
というものを生まれて初めて意識するようになったのが、
このときでした。
毎週絶対に書かなければいけない作文。
最初のころは真っ白いページと何時間も向き合い、
それだけで学校に帰ってからの時間が終わってしまうという
「試練」でしかなかったけれど、
回を重ねていくごとにすらすらと自然に
鉛筆から自分の言葉が紡ぎ出されていくようになりました。
そして、気が付けば「今週の課題はなんだろう」と
毎週月曜日のテーマ発表の日が「楽しみ」へと変わっていたのです。
卒業間際に、わたしが書いた「グループノート」のなかに
こんな言葉が残されていました。
小学校生活最後の担任の先生が、この先生でよかったと
私は思います。
このクラスになって、担任が先生じゃなかったら、
こんなに勉強を頑張ろうとも思わなかったし、
グループノートをやることもなかったから。
***
今まであまり意識したことはなかったけれど、
改めて幼少期の記憶を辿ってみると、
自分の思ったこと、感じたことを表現できる楽しさ、
喜びを知ったのは、やはりここが原点。
ほぼ日の塾をきっかけに「書く」ことと向き合ったわたしは、
ここに行き着きました。
わたしに「書く」きっかけを与えてくれた先生は、
なぜこの「グループノート」の取り組みをしていたのだろう。
あの頃はそんな疑問すら持たないぐらい、
素直で幼かったわたし。
今だったら教えてくれるかな。
そう思い立ったわたしは、社会人になるとともに離れた地元へと向かい、
当時の担任の先生へ会いに行くことにしたのです。
(次は、先生との対談をお送りします。)