高校卒業まで岩手に住み、
大学4年間は仙台で過ごしました。
大学を卒業した2008年春、仙台のweb制作会社へ就職しました。
いちどは東京で働いてみたいなぁ、という思いも抱えつつ、
仙台の居心地の良さを気に入っていたからです。
就職して1ヶ月たった、ゴールデンウイーク明けのある日。
「代々木オフィスの人員に空きができたけど、
行かない?」と、上司から声をかけられました。
この会社は東京の代々木にもオフィスがあり、
ずっとそこで働いていたひとが
退職するといいます。
東京で働いてみたいと思っていたので、
わたしは二つ返事でOKしました。
異動は7月1日。
それまでに住む家を決めなければいけません。
住む路線は「中央線」と決めました。
理由は3つありました。
1.中央線は地方出身者が多いからいいよと
勧められたから。
勧めてくれたのは職場の東京生まれの先輩。
同じように上京してきた人が多いと聞くと、
なんだか安心した気がします。
2.代々木へ、電車の乗り換え無しで通えるから。
上京したての自分に、「乗り換え」は
ものすごくハードルが高いだろうと感じられました。
3.代々木からの終電がいちばん遅かったから。
この理由がもっとも大きいかもしれません。
頑張って働こうと思っていたので、
「遅くまで電車が動いている路線」にしようと思いました。
6月上旬、東京へ行き、
阿佐ヶ谷駅前の不動産屋で家を探します。
「なんて狭くて高いんだ!」
これが家を内見したときの最初の印象です。
なんとか条件の折り合いをつけて、
住む家を阿佐ヶ谷に決めたのは
その日の夕方遅くのことでした。
6月末には仙台から東京へ引っ越し。
母も手伝いにきてくれました。
確か小雨が降る日だったなぁ。
引っ越し荷物の片付けが終わったあと、
阿佐ヶ谷のパールセンター商店街にある「ミート屋」で
母とパスタを食べました。
「身体に気をつけて頑張ってね」と言って
岩手に帰っていった母。
いまでも「ミート屋」の前を通ると、胸の奥がつんとします。
引っ越した次の日から、
東京での仕事がはじまりました。
遅くまで働き、代々木駅へダッシュします。
ホームへ滑り込んできた、
オレンジ色の電車に乗ります。
慣れない街、慣れない仕事では
うまくいかないことがたくさんです。
帰りの中央線の中では
その日の仕事を振り返って「ひとり反省会」。
反省というより、
「できない自分」を責めていたというほうが
近いかもしれません。
「ひとり反省会」をする中央線の車窓からは、
中野、高円寺、阿佐ヶ谷と景色が流れていきます。
雑多なネオン看板や住宅街の明かり。
いまとなっては、
それこそが大好きな街並みだけれど、
あのときはまだ「得体のしれない」ものでした。
街並みを見ていると、不安な感じがしていました。
阿佐ヶ谷駅から降りて家までは
線路の高架下をとぼとぼと帰ります。
帰り道は毎日のように、
「中央線が嫌いだなぁ」
と思っていたのをよく覚えています。
わたしの中で中央線は「不安の象徴」でした。
不安な気持ちを共有できる友だちも少なく、
新しい街と仕事に慣れるので精いっぱい。
友だちを作る余裕はありませんでした。
上京前は、東京のイメージは
「きらびやかで、何もかもが手に入る場所」
と思っていたけれど、想像とは違っていました。