“好きなコト”ならたくさんある。
たとえば、飲み会の後、みんなと別れて
ひとりになって深夜の書店を徘徊すること。
ほろ酔い状態で、無軌道に本や漫画を大人買い。
翌朝、そのラインナップを眺めるのもまた一興。
シラフだったら手を出さないような
おそらくはジャケ買いしたと思われる本をみて
「無駄遣いだったかな」と呆れてみたり。
それでも、ページをパラパラめくって
「おー、やっぱり面白いじゃん」と
無意識下の選書センスに自画自賛してみたり。
(おめでたいけれど、自尊感情が高まります…)。
あるいは、キッチンで豆苗を育てていること。
買ってきた袋の裏に書いてあったやり方を参考に
料理用に刈り取った残りの苗を
水を入れたパットに浸して栽培してみているのだが
3度目のトライで、また食べられそうなくらい
成長していて、最近様子をみてはニヤついている。
中学での家庭科の成績は、「1」ないし「2」。
結婚前は忙しさにかまけて、3食外食。
そんな非家庭的かつ非経済的だった私が
100円足らずで購入した豆苗をコツコツ栽培し
よもや再収穫をも目論むだなんて!
人生なにが起こるかわからないということの
象徴として、豆苗の成長を面白く観察している。
(水を毎日取り替えているのは僕なので
君は育ててはいない、とパートナー氏)
こんな風に地味な感じではあるけれど
個人的に好きな時間や状況設定については
わりに出てくるし、ちょっとだけ自信もある。
なぜなら、私だけの妙に伸び伸びした
こだわりによって切り取られた
“マイワールド”内でのお話だから。
そして、その世界でおきたコトへの
「好きさ度合い」には世界の製造元として
それなりの責任感と自負心もあるからだ。
しかし、「好きな物(ブツ)」となると
とたんに戸惑ってしまう私がいる。
特に、食べものは難しいと感じる。
今、私の目の前に歴然とある食べもの。
みんなも知っていて、実際に口にできる食べもの。
そういった“普遍的でリアル”なものについては
私がいくらそれを好きだと思っても
ほかの人の好きな場合もたくさんある
それに、ほかの人の「好きさ度合い」と比べて
自分のそれが「優位に高い」かどうかは
そもそも明確な基準があるわけでもないし
人の頭の中はのぞけないから
おそらく、一生わからない。
「好き」という主観的な行為にさえ
優劣を意識してしまう自分に嫌気がさす。
それでもやはり私にとって
ある食べものを好きといって
それについて伸び伸びと語るのは難しい。
心のどこかで、それは大作家やエッセイストの
の仕事だ、と思っている節がある。
彼らは、個人的な主観を言語によって普遍化し
面白く伝える能力に長けているから。
だから、私がライターとして
食べものをテーマにするときは
それに関わる生産者、料理人、お店などを掘り下げ
結果として、その美味しさや愛されている理由が
浮かび上がってくる、というような接し方しかできない。
それだけで十分に面白いことではあるけれど。
まどろっこしく色々書いてきたが、
結局は自意識を超えて「これが好きです!」
と言い切れるほどの好きな食べものって
私にはないのかもしれないなぁ、とたそがれつつ
いつものようにSNS世界を漂っていたら
過去の己の投稿にこんなものを発見した。


「もーわけわかんないくらい美味い」
「私の幸せ」
めちゃくちゃに主観である。
誰も興味がないと思うがSNSで
私が食べものの写真を載せることは稀だ。
たとえ載せたとしても、愉快だった
その場の雰囲気を伝えるための意味合いが強い。
それなのに、ここ数年間で2回も
こんなにも「好き感」満載な投稿をしている。
知らぬ間に、私の面倒くさい屈託を
ふっと飛ばしてくれていたのは
東京・丸の内で食べられる「インデアンカレー」。
珍しいケースを与えてくれた同店へ感謝を込めて
次回、“コト”も“ブツ”も織り交ぜて
主観も客観も超えてただひたすらに
「インデアンカレー」への愛をつづります。
(つづきます)