クロザルのいるインドネシア スラウェシ島へ向かう日、
ぼくはフィリピン マニラで睡眠薬強盗にあった。
黒いベンチの上で目を覚ましたが、
自分がどこにいるのかわからない。
頭がぼーっとしていて、視界も白っぽく、耳もよく聞こえない。
違和感のあった顔に手をあててみると、手には赤ワイン色の血がついた。
昔あったドラマのように「なんじゃこりゃあ」なんてことばも出ない。
視覚と聴覚が回復してきてわかった、ここは空港だ。
いったい、自分になにがおこったのだろう。
ゆっくりと、その日の記憶を巻き戻してみる。
その日のぼくは、マニラからスラウェシ島へ向かう予定だった。
マニラのホテルをチェックアウトすると、
搭乗時刻までまだ時間があったため、
大きな荷物を預けて公園を散歩することにした。
公園を歩いていると、しつこく観光の勧誘をされた。
バイクに乗って、マニラの主要地を一周しないかというものだった。
断っても、断っても、彼はひっつき虫のようについてくる。
すると、右側後方から来た男女ふたりが声をかけてきた。
「彼のことわるく思わないでね。
彼は彼のビジネスを一生懸命やってるだけだから」。
その通りだと思った。すてきなことを言う人だと思った。
メガネをかけ真っ赤な服を着た40代の女、
小柄で人のよさそうな顔をした30代後半の男。
そのままの流れで、彼らと歩きながら話すことに。
ふたりはマニラに遊びにきた姉弟だという。
女は小学校で英語を教えている先生。
男は子どもがいて、携帯電話でかわいい子どもの動画を見せてきた。
何分か話すと、「ビールでも飲みに行く?」と誘われ、
「ほんの少しなら」とついていくと、カラオケ屋さんに入った。
「知らない人についていくなって
『地球の歩き方』に書いてあるじゃん。(笑)」
後日会った友だちに言われた。
そのときのぼくは「彼のことわるく思わないでね。
彼は彼のビジネスを一生懸命やってるだけだから」の
一言でふたりをすっかり信用してしまっていた。
そして、なにより、友だちがほしかったのだ。
カラオケ屋さんとはいえ、日本のような個室になっていない。
お店には、ドアもガラスもないため、
道を歩くみんなに歌が聴こえてしまうような場所だ。
ぼくたち3人はビールで乾杯をした。
はじめ、男が目を瞑りながら気持ちよさそうに歌う。
ちょうどいい音痴具合で、
カラオケのトップバッターとしては優秀だ。
次の人は肩肘張らずに歌える。
女が途中、外で果物を買ってきた。
その場で包丁を使って半分に切り、ぼくは半分を口にする。
ふたりは、ぼくにも「なにか歌ってよ」と言う。
男がリクエストした曲はビートルズの『Let It Be』。
たしかにこの曲なら歌うことができそうだ。
ぼくは、全力で『Let It Be』を歌った。
そして眠った。
歌を歌った後の記憶がまったくない。
いや、車から降りるとき、
顔面から転んだという、かすかな記憶がある。
顔のキズは、殴られたものではないと思う。
そして、ぼくは空港のベンチで目を覚ました。
あわてて、バッグの中を見る。
パソコン、360度カメラ、2台のiPhone、
時計、2枚のクレジットカード、財布がない。
やられた。
『Let It Be』の意味通り、「なすがまま」に誘われ、
「なすがまま」にビールを飲み、「なすがまま」に眠らされ、
「なすがまま」に盗まれた。
『Let It Be』をリクエストした男はきっと、
懸命に歌うぼくの横でニヤニヤしていたことだろう。
ふたりは脚本、監督、俳優を見事にこなしたのだ。
公園で観光に誘ってきた人もグルだったのか、わからない。
睡眠薬がビールに入っていたのか、果物に塗られたのかわからない。
どうやって、空港に来たのかもわからない。
わからないことだらけだ。
わからないことがもう1つある。
手もとに、パスポート、一眼レフのカメラ、
クレジットカード1枚が残っていた。
これは、「クロザルに会いにいけ」と神さまが言っているのだろうか。
いや、犯人の気まぐれだろうか。
ぼくは、警察に行き、そのままクロザルのいるスラウェシ島へ向かった。