十文字美信的世界。
生き方が、もう表現であるような。

第1回 黄金の次は、わびだと思った。







 かつて、あるカメラマンを紹介したおぼえがあります。
 助手をやっていた彼が独立したときに、有り金はたいて、
 インスタントラーメンを買い込んだという話。
 「これで、食う心配をせずに仕事ができる」という。
 ある意味ではまちがった考えなのでしょうが、
 やっぱり、こういう話は、聞いて気持のいい青春物語です。

 本人はごく自然にやっているらしいんだけど、
 周囲のぼくらみたいな平凡な人間は、息をのんでしまう。
 そう、十文字美信さんのことです。

 こんどの写真集は、『わび』(淡交社)というんですよ。
 この人、また、とんでもない世界を相手にしはじめた!
 おそらく、美的センスというものの正体を
 捕まえたくなったのではないかと思うのです。
 またまた、ぼくは恐れ入ってます。

        (2002年12月8日の「ほぼ日」今日のダーリンより)







(※去年末の「ほぼ日」で、
  上記のように予告していた企画が、実現しました。
  1月9日に行われた、十文字美信さんと糸井重里の対談。
  今日から、さっそく、おとどけしてゆきますよー!)



十文字 おひさしぶり。
糸井 いらっしゃい。

この『わび』って本……なにあれ?
ほんとうに、驚いたよ!

驚きのあまり、来ていただいたんですけど。
もともとは、どこかの連載だったんですよね。
十文字 茶道部のところだけは、そうです。
裏千家に関係ある
出版社から出している雑誌で連載してました。
そこで、1年半ぐらい、連載していたのかなぁ。
淡交社という出版社で「なごみ」という雑誌でした。

だから、淡交社としては、
第2章の「茶」だけの写真集を
作るんだと思っていたんじゃないかなあ?
糸井 いや、きっとそうだよ!
十文字 だから、驚いたみたい。
特に、第3章の「現代」は、
印刷直前までまったく知らなかったから。
糸井 え? そういうのって作っちゃっていいの?
十文字 割と、鷹揚にかまえてくれていました。
それに、編集者が新しい「わび」を
期待していたんだと思うよ。
糸井 第2章は「お茶」についてを扱っているけど、
それ以外は、ほとんど、
「いわゆる茶道」ではないからねぇ。
ものすごいよ、この写真は……。
十文字 お茶以外のものを撮っているということは、
編集者は知らなかったから。
途中の段階までは見たこともないし。
『わび』というテーマで本を作ろうと、
出版社の編集会議で通ったのも、
そもそも9年前になるもんね。

当時の編集者も、
出世しちゃって、いまや局長になっていますから、
直接の担当から離れちゃった。
糸井 いいねぇ、その雰囲気も。
十文字 「『わび』というテーマで
 本を作ろう、撮影は十文字で」
そういう事実だけが残った状態になっていたから。
糸井 そういう本を作ろう、というのは、
十文字さんのほうから持っていったわけではない?
十文字 いや、ぼくが持っていった。
1990年に日本の黄金美術を
テーマにした写真集『黄金風天人』を
やり終わった後に、自分の中では、すでに、
「つぎは、わびだ」と思っていたから。
糸井 世界中の黄金を
撮りまくった写真集を作ったあとに、
テーマを「わび」だと決めていたんだ?
ただ、実際に本が出るには、
そうとう偶然が重なっていたんだね。
それが、おもしろい。
十文字 だって、いまどきこんなテーマの本、
出してくれる出版社はないでしょう?
糸井 だから、びっくりしたんだよ……。
淡交社ということで、まずは
「あ、これは組織票があったんだな。
 まず、茶道部やお茶関係者は、買ってくれる」
とは、思ったんですけどね。
十文字 当然、そういう人たちを対象にして作ってると、
淡交社としては思っていたんだね。
ぼくの周辺の新しい人たちのことも
考えていたとは思うけど。
だけど、こういうかたちになりましたから、
最初はとまどっていたんじゃないかなぁ?
お茶関係の人たちも買ってくれてると、
編集者から聞いたけど、たぶん、
本を開いて驚いているんじゃないかなぁ。

ですからいま、ぼくのところに
たくさんの反響が来ています。
いままで作った本とは比較にならないくらい。

ちょっと不思議な気がするんですけど、
「わびさび」というのは、
みんな、どうも何となく、自分の
「わびさび」の世界があるんですよね。
そこがすごくおもしろい。
この本を見た時に、自分の「わび」と、
どこかがつながっていると思うんですね。

それぞれの人にとっての「わびさび」と
僕が感じてる「わび」とは、違っているんだけど、
写真を見ると、どこかでつながっている、
と思うらしい、そこがおもしろい。
本を見た人達の感想は、今までの本と違っていて、
書いてくる内容がとても具体的です。
やはり「わび」ということでは、
一人一人それぞれが持っている風景があるんだね。
ただ、なんとなくぼんやりしていて、
この写真を見ると、
そのぼんやりしてた風景の輪郭が
ややはっきりしてくる、そこを指摘してくれて。
糸井 それで、安心して見られるのが、
茶の章なんですよね。
十文字 そうなんです。
やはり「わび」といえば
「わび茶」のことが一般的でしょ。
糸井 そっちは、共同幻想なんですもん。
それ以外の章には、
私幻想が入れこまれていて、更に、
どっちでもないものが、たまに入ってる(笑)
十文字 そうなの。
そのどっちでもないと感じるものが
実はいちばん、
自分の「わび」を確認できるわけでしょ。
糸井 まずは、黄金のあとに「わび」かよ!
というインパクトがあるじゃないですか。
「茶道部みたいなところで撮ったんだろうなぁ」
と思ってパラパラと開いてみたら……。
これがもう、こちら側の感想が
出てきて出てきて、困るぐらいなの。
ページを、めくるたびに感想がいくつも……!
十文字 そうなのよ。
いままでみたいな、たとえば、
「本読みました、ありがとう」
みたいな感想じゃなくて、みんな、
自分が抱いていた「わび」に対する思いを
真剣に書いてきてくれるんですよ。
糸井 わかる。
俺が十文字さんに会いたくなったのも、
それだもん。
十文字 それはうれしいです。
糸井 (本のページをめくる)
これなんか、茶道だけじゃなくて、
華道も入っているもん。
茶でもなく、私でもないものもある。
十文字 このあいだ、『BRUTUS』の編集者と話した時に、
たまたまその写真をひろげて、
「これは現代アートに見える」と言われたよ。
糸井 ただ、現代アートとして
見ようとする一群の人たちは昔からいて、
「モダンアートとして、いいんじゃないか」
と、外人の目でものを見るじゃないですか。
その褒めかたは、ひととおり、もう、
いろいろなものについて、終わったと思うんです。
それだと、茶のことはわからない。
「シンプル・イズ・ベスト」みたいな発言しか、
できなくなっちゃうもんね。
十文字 いま糸井さんが言ったことって、
結局は、わびの神髄で。

わびっていうのは心で見るもので、
現実のものを通して、
自分の見たいものを見ていいの。

糸井 あぁ……。
十文字 そのことをぼくは、
この本で言いたかったんです。
もともと、
日本にはそういうアートがあったのに、
ぷっつり切れちゃっていた。

そういうアートが出てきたのは、
だいたい、鎌倉時代ぐらいからです。
貴族のものだった美術や文化が、
大衆の中におりてきたの。

それは美術の世界だけでなくて、
むしろ宗教の世界で顕著にあらわれた。
当時の大衆っていうのは、
そんなに教養も下地もないですよね。
だから、
「見たものを通して、
 自分の見たいように見ていいよ」
という鎌倉新仏教が出てきた。

本当の宗教を追求しようとした人たちは
寺を捨てて民衆の中に分け入った時代です。
むずかしいことはいらないんだ、ただ、ただ、
「南無阿弥陀仏」と唱えれば救われると教えた。

ルネサンスよりも、さらに数百年前、
1200年あたりから、
連綿と続いてきた文化でしょう?
糸井 うん、すごい蓄積だよね。
十文字 それが、どこかで、ぶつっと、切れちゃった。
なぜかは、わからないけど。
鎌倉期に起きた美の大衆化っていうのは、
「それぞれ、見たいものを
 自分の心のなかに、作りなさい」
ということですよね。

「見たいものを、見なさい」なんです。

わびって、もともと、敗者のものです。
隠遁とか遁世というかたちで、
世俗から距離をおかざるを得なかった人たちが
ひらきなおって発見した美意識です。


ぴかぴか光る黄金よりも、
自分たちの身のまわりにある、
特別でないもの、あたりまえで地味な方が
よっぽど深みがあって、飽きがこないってね。
隠遁して、山里に入った
数寄者(すきもの)たちの作った
美意識だから、もともとの発生からして、
成功した貴族の作ったものじゃないんですよ。
糸井 十文字さんは「黄金」をやった後だから、
なおさらわかるんだね。
十文字 そうなんです。
糸井 ビカビカの黄金を作る人たちとは別に、
自分たちが美しいと思うものを、
社会的な成功ではないかたちで
求めざるをえない人たちがいたわけだもんね。
歴史上、ほとんどの人にとっては、
食うや食わずの時代が長かったんだし。

鎌倉時代なんていうのは、
まだ食えていないわけですから、
「みんなが言っているのが成功だとしたら、
 俺たちは生きている価値がないじゃないか」
そう思う人たちが作る文化もある、と。
十文字 黄金をやっていた時には、
仏像を撮ることが中心だったんですけど、
平安時代や鎌倉時代に作った仏像と言っても、
ぼくが撮る現代では
もう、ピカピカじゃないわけです。
当然、剥落しているわ、欠損しているわ、
金は光りを失ってるわ、みたいなね。

現実に作られた時代には、
そういうものを見ていたわけじゃないでしょう。
でも、いまの時代の人は
その不完全な姿を見て
「いいね」「いいね」って言ってる。

それがもし作りたてだったら?
ほんとにいいって言えるの?
なかにはとてつもなく下品でつまらない
仏さんも、いるんじゃないの?

……それってなんだろう?

そういうところから、
「わび」を考え始めていたんです。
糸井 つまり、
「おまえらがいいって言ってるのは、
 勝手に言ってるだけじゃないか」
ということですよね。
当時の人がいいと思ったことと、
いまのイメージと違っているわけで。

歌謡曲をほめる評論家みたいに
みんながなっていることに対して、
十文字さんが金ピカなところばかりで
写真を撮っていって……。
あの黄金の本で、
ふざけたこともしているじゃないですか。
「立体で見る」だとか、それから
どんどん黄金ってことで飛んでいって、
とうとう、金塊まで撮りはじめた(笑)。

あれで、要するに、
「そこに価値を見いだす人が
 いるということを認めろよ」という、
すごい意地悪なアートだったと思うんです。
サブカルチャーをもう一度ひっくりかえしたような。
カルチャーがあって、サブカルがあって、
そしてその中で十文字さんの撮った黄金は、
「もう一度、サブへのカウンターだった」と思う。
「趣味がいい」ということへのカウンターだから、
その先に、
ものすごい隠れたものを感じていました。
それがついに、出てきたんだ。
これは、興奮します。


(対談は、明日につづきます!)

2003-01-13-MON


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