糸井 |
十文字さんがヤオ族に行ったのは、
「自分が動いていくことや
生きることそのものがおもしろくてやっている」
という行動だったわけですよね。
その一方で、「写真家である自分」もいる。
写真家って、カメラを持っていって、
写真におさめる形で仕事にするじゃない。
「もう、撮んなくてもいいや」
みたいな心境には……。 |
十文字 |
それは、ものすごくなりますよ。 |
糸井 |
なるよね? |
十文字 |
すごい、興奮してるからね。
それに、生活してるわけだから、
観察とまた違う時の方が多いんですよ。 |
糸井 |
「もう、目がカメラだ、それでいいや」
みたいになるもんなぁ。 |
十文字 |
カメラの中をのぞいていても、
周囲の様子は、見えてこないんですよ。
確かに、カメラのフレームの中では
すごく深くものを見ることができるんだけど、
フレームの外は見えていないから。
だから、自分を環境に同化させる時は
カメラは向いてないです。
カメラが役に立つのは、
自分が旅人に留まってる時だね。
彼等の生態系に入ろうとしたら、
ひとまずカメラを置いて、
一緒の生活、一緒の行動するようにしないとね。
たとえば、
舞台写真なんてすごくよくわかるんだけど、
被写体である役者本人を撮ってると、
舞台の進行なんて見えないよね。
だから、ぼくはヤオ族に
会いにいったわけだから、
ある状態になるまでは、
そういう場面では、めったに写真を撮りません。 |
糸井 |
でも、撮りたい写真が出てくるんだ? |
十文字 |
だんだんとね。 |
糸井 |
そういうもんなんですか。
写真家が写真を撮りたいっていうのは、
俺には、わからない気持ちなんだけど、
敢えて言えば、どんなような気持ちなんですか? |
十文字 |
「入口」があるんですよ。
その入口っていうのは、自分の興味、テーマ。
テーマというのは、
人によっては必要ないと思うかもしれないけど、
ぼくは、それを「目的だ」と感じる。
入口がある。
入り口があればそこに入りたいじゃないですか。
だけど、入ってから、撮るか撮らないかは、
その時にならないとわからないですね。
写真を撮るというのは、
考えることと対極にある行為だと思っていい。
「最初の入口の興味」は、
「写真を撮ろうと思って考える興味」だけど、
実際に入ってみると、
もう写真のことは忘れるかもしれないし、
たぶん、人によって違うよ……。
まぁ、当時のぼくは、そういう感じだった。
いまは違うよ。 |
糸井 |
いまはまた、どうも違うみたいだね。
『わび』を見ていると、なんかそう思う。 |
十文字 |
うん。
それに当時は、すごいエネルギーもあるし。 |
糸井 |
若さが生む、「はみ出すエネルギー」ですよね。 |
十文字 |
そうそう、だから、
おとなしくシャッターきってられないんですよ。 |
糸井 |
わかるなぁ、その気持ちは。
俺は写真を撮らない人間なんです。
カメラを持っていても、撮らないです。
やっぱり、「撮ってらんない」んですよ。 |
十文字 |
うん、時間は、どんどん過ぎていくし……。 |
糸井 |
そうなの。
カメラマンでもないのに
撮っている人が、なぜ撮っているのか、
ぼくはいつも質問したくなるわけですよ。
「あとで見るため」って、
別におまえは書記じゃないだろうが、とか感じる。
その場で生きていれば、それでいいんじゃない?
そういう気分に、いつも思わずなるんです。
まぁ、きっと俺は一生そうなんでしょう。
だけど、写真家はほんとは撮るおもしろさを
わかっているわけだから、けっこう、
そういうヤオ族との遭遇の場なんかでは、
複雑な気持ちになるんだろうなぁ、と思って。 |
十文字 |
結局ね、カメラは、
「見ようと思うものを見るための道具」
なんです。
いちばん最初に話したように、
それぞれの人は、目で見ているもの以外のものを、
見ているわけじゃないですか。
たとえば、この目の前にあるツボならツボを見て、
ツボそのものだけじゃなくて、
「あ、人間のカラダに似ているなぁ」とか、
「このテカリは石に似ていないか」だとか。
そういう風に思いはじめたものっていうのは、
見ていると、撮りたくなるんです。
自分の目で、撮りたくなる。
何かを感じたのは、誰の思いでもなく、
「自分の思い」ですよね。その自分の思いで、
写真を撮ってみたくなるんですよ。
できあがった写真は、結果的には、
これだったら、ツボの形をした
ただのランプの写真かもしれないけれど、
でも、写真を見た人が何かがあると感じたり、
「この人が撮ると、ただのランプじゃないなぁ」
とか、そういうのって、
ざわざわするじゃないですか、
「個人の思い」で、
見たいように見てるからなんですよね。
だから、ぼくは写真を撮るんです。
最近は、そういうことをすごく感じるようになった。
映像表現の手段って、
さまざまに種類が増えて、技術的にも進歩して、
いままで表せなかったものが
容易にできるようになった。
でも、そうなればなるほど、
原始的なざわざわするものって、
明らかになって来るよね。 |
糸井 |
その方向に、気持ちが行ってるんだ? |
十文字 |
どんどん、来てるねぇ。 |
糸井 |
この『わび』の本を見てると、
それ、すごく感じますね。
じゃあ、もともと、ヤオ族に
貴重な資料を探しにいこうという気持ちと、
写真に撮ろうという気持ちとは、
ぜんぜん、関係なかったんですね。 |
十文字 |
関係ないです。 |
糸井 |
だけど、「撮りたい」と
思うだけのことが、あったんだね。 |
十文字 |
あのころは、ぼくとしては、
見たことのないものを見てみよう、
ということだったんですよね。
「見たことのないものを見たい」
「食べたことのないものを食ってみたい」
そういう気持ちだったと思う。 |
糸井 |
あぁ、たしかに、そういう時代だった。 |
十文字 |
行ったことのないところに行ってみたいし、
会ったことのないヤツに会ってみたいし……。
そういう時代よね。
ぼくはそれでいいと思っている。
そういう時代を駆けぬけてきたわけだから。 |
糸井 |
うん。
最初に、遭遇していないものに会うまでは、
それが価値だから、飽和するまではいいよね。
ただ、やはり、飽和しますよね。
いまはもしかしてそのヤオ族に会いにいく
ツアーが組まれているかもしれないから……。 |
十文字 |
だって、世の中ってもともとそうじゃないですか。
何でも、おもしろくて、結果的に
価値として残って行くのは「最初だけ」ですよ。
「わび」とか「遁世」もそうだけど、
世俗から逃れるために、山に入りますよね。
数寄者たちが、かっこよく言うと、
「自己を見つめるため」に隠遁するわけだ。
でも、鎌倉時代に、
最初にそれをやった西行だとか、鴨長明だとか、
そういう人を、世間の人達は、
「すごいなぁ」と、尊敬したのかもしれない。
あそこまではできないよ、みたいな。
だけどそのうち、100人1000人と
隠遁生活を送るヤツが出てくりゃあ、
「もう、勝手にやってろ」と言うのが、
時代じゃないですか。それのくりかえしですよ。 |