十文字美信的世界。
生き方が、もう表現であるような。

第6回 写真を撮るということ。


糸井 十文字さんがヤオ族に行ったのは、
「自分が動いていくことや
 生きることそのものがおもしろくてやっている」
という行動だったわけですよね。

その一方で、「写真家である自分」もいる。

写真家って、カメラを持っていって、
写真におさめる形で仕事にするじゃない。
「もう、撮んなくてもいいや」
みたいな心境には……。
十文字 それは、ものすごくなりますよ。
糸井 なるよね?
十文字 すごい、興奮してるからね。
それに、生活してるわけだから、
観察とまた違う時の方が多いんですよ。
糸井 「もう、目がカメラだ、それでいいや」
みたいになるもんなぁ。
十文字 カメラの中をのぞいていても、
周囲の様子は、見えてこないんですよ。

確かに、カメラのフレームの中では
すごく深くものを見ることができるんだけど、
フレームの外は見えていないから。


だから、自分を環境に同化させる時は
カメラは向いてないです。
カメラが役に立つのは、
自分が旅人に留まってる時だね。

彼等の生態系に入ろうとしたら、
ひとまずカメラを置いて、
一緒の生活、一緒の行動するようにしないとね。

たとえば、
舞台写真なんてすごくよくわかるんだけど、
被写体である役者本人を撮ってると、
舞台の進行なんて見えないよね。

だから、ぼくはヤオ族に
会いにいったわけだから、
ある状態になるまでは、
そういう場面では、めったに写真を撮りません。
糸井 でも、撮りたい写真が出てくるんだ?
十文字 だんだんとね。
糸井 そういうもんなんですか。
写真家が写真を撮りたいっていうのは、
俺には、わからない気持ちなんだけど、
敢えて言えば、どんなような気持ちなんですか?
十文字 「入口」があるんですよ。
その入口っていうのは、自分の興味、テーマ。
テーマというのは、
人によっては必要ないと思うかもしれないけど、
ぼくは、それを「目的だ」と感じる。

入口がある。
入り口があればそこに入りたいじゃないですか。
だけど、入ってから、撮るか撮らないかは、
その時にならないとわからないですね。
写真を撮るというのは、
考えることと対極にある行為だと思っていい。

「最初の入口の興味」は、
「写真を撮ろうと思って考える興味」だけど、
実際に入ってみると、
もう写真のことは忘れるかもしれないし、
たぶん、人によって違うよ……。
まぁ、当時のぼくは、そういう感じだった。

いまは違うよ。
糸井 いまはまた、どうも違うみたいだね。
『わび』を見ていると、なんかそう思う。
十文字 うん。
それに当時は、すごいエネルギーもあるし。
糸井 若さが生む、「はみ出すエネルギー」ですよね。
十文字 そうそう、だから、
おとなしくシャッターきってられないんですよ。
糸井 わかるなぁ、その気持ちは。
俺は写真を撮らない人間なんです。
カメラを持っていても、撮らないです。
やっぱり、「撮ってらんない」んですよ。
十文字 うん、時間は、どんどん過ぎていくし……。
糸井 そうなの。
カメラマンでもないのに
撮っている人が、なぜ撮っているのか、
ぼくはいつも質問したくなるわけですよ。

「あとで見るため」って、
別におまえは書記じゃないだろうが、とか感じる。
その場で生きていれば、それでいいんじゃない?
そういう気分に、いつも思わずなるんです。
まぁ、きっと俺は一生そうなんでしょう。

だけど、写真家はほんとは撮るおもしろさを
わかっているわけだから、けっこう、
そういうヤオ族との遭遇の場なんかでは、
複雑な気持ちになるんだろうなぁ、と思って。
十文字 結局ね、カメラは、
「見ようと思うものを見るための道具」
なんです。

いちばん最初に話したように、
それぞれの人は、目で見ているもの以外のものを、
見ているわけじゃないですか。
たとえば、この目の前にあるツボならツボを見て、
ツボそのものだけじゃなくて、
「あ、人間のカラダに似ているなぁ」とか、
「このテカリは石に似ていないか」だとか。

そういう風に思いはじめたものっていうのは、
見ていると、撮りたくなるんです。
自分の目で、撮りたくなる。

何かを感じたのは、誰の思いでもなく、
「自分の思い」ですよね。その自分の思いで、
写真を撮ってみたくなるんですよ。


できあがった写真は、結果的には、
これだったら、ツボの形をした
ただのランプの写真かもしれないけれど、
でも、写真を見た人が何かがあると感じたり、
「この人が撮ると、ただのランプじゃないなぁ」
とか、そういうのって、
ざわざわするじゃないですか、

「個人の思い」で、
見たいように見てるからなんですよね。

だから、ぼくは写真を撮るんです。
最近は、そういうことをすごく感じるようになった。

映像表現の手段って、
さまざまに種類が増えて、技術的にも進歩して、
いままで表せなかったものが
容易にできるようになった。
でも、そうなればなるほど、
原始的なざわざわするものって、
明らかになって来るよね。
糸井 その方向に、気持ちが行ってるんだ?
十文字 どんどん、来てるねぇ。
糸井 この『わび』の本を見てると、
それ、すごく感じますね。

じゃあ、もともと、ヤオ族に
貴重な資料を探しにいこうという気持ちと、
写真に撮ろうという気持ちとは、
ぜんぜん、関係なかったんですね。
十文字 関係ないです。
糸井 だけど、「撮りたい」と
思うだけのことが、あったんだね。
十文字 あのころは、ぼくとしては、
見たことのないものを見てみよう、
ということだったんですよね。

「見たことのないものを見たい」
「食べたことのないものを食ってみたい」


そういう気持ちだったと思う。
糸井 あぁ、たしかに、そういう時代だった。
十文字 行ったことのないところに行ってみたいし、
会ったことのないヤツに会ってみたいし……。
そういう時代よね。
ぼくはそれでいいと思っている。
そういう時代を駆けぬけてきたわけだから。
糸井 うん。
最初に、遭遇していないものに会うまでは、
それが価値だから、飽和するまではいいよね。
ただ、やはり、飽和しますよね。
いまはもしかしてそのヤオ族に会いにいく
ツアーが組まれているかもしれないから……。
十文字 だって、世の中ってもともとそうじゃないですか。
何でも、おもしろくて、結果的に
価値として残って行くのは「最初だけ」ですよ。


「わび」とか「遁世」もそうだけど、
世俗から逃れるために、山に入りますよね。
数寄者たちが、かっこよく言うと、
「自己を見つめるため」に隠遁するわけだ。

でも、鎌倉時代に、
最初にそれをやった西行だとか、鴨長明だとか、
そういう人を、世間の人達は、
「すごいなぁ」と、尊敬したのかもしれない。
あそこまではできないよ、みたいな。

だけどそのうち、100人1000人と
隠遁生活を送るヤツが出てくりゃあ、
「もう、勝手にやってろ」と言うのが、
時代じゃないですか。それのくりかえしですよ。


(明日の第7回に、つづきます)

2003-01-19-SUN


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