俳優の言葉。 004 國村隼篇

ほぼ日刊イトイ新聞

俳優の言葉は編集しにくい。扱いづらい。
きれいに整えられてしまうのを、
拒むようなところがある。語尾でさえも。
こちらの思惑どおりにならないし、
力ずくで曲げれば、
顔が、たちどころに、消え失せる。
ごつごつしていて、赤く熱を帯びている。
それが矛盾をおそれず、誤解もおそれず、
失速もせずに、心にとどいてくる。
声や、目や、身振りや、沈黙を使って、
小説家とは違う方法で、
物語を紡いできたプロフェッショナル。
そんな俳優たちの「言葉」を、
少しずつ、お届けしていこうと思います。
不定期連載、担当は「ほぼ日」奥野です。

> 國村隼さんのプロフィール

國村隼(くにむら・じゅん)

1955年生まれ。大阪府出身。
1997年に『萌の朱雀』(河瀬直美監督)で映画初主演。
以降、国内外の数多くの作品に出演。
クエンティン・タランティーノ監督『キル・ビルvol.1』(03)、
ジョン・ウー監督『マンハント』(18)など
海外の作品にも出演、
韓国のナ・ホンジン監督『哭声 / コクソン』(17)では
第37回青龍映画賞の男優助演賞と人気スタ-賞の2冠を獲得、
外国人俳優初の受賞となり注目を集めた。
近年の主な映画出演作に
『シン・ゴジラ』(16)、
『海賊とよばれた男』(16)、
『忍びの国』(17)、
『DESTINY鎌倉ものがたり』(17)、
『パンク侍、斬られて候』(18)、
『泣き虫しょったんの奇跡』(18)など。
2018年11月30日より主演作『かぞくいろ』が公開予定。
ドラマでは、NHKスペシャル「未解決事件」
(2018年9月8日放送)の主演を務める。
2018年9月7日~放送の
NHK-BS時代劇「雲霧仁左衛門4」にも出演。

第1回 ブラック・レインと、優作さん。

──
昨晩、國村さんにお話をうかがうので、
何か観ようと思って、考えて、
『ブラック・レイン』を観てきました。
國村
あら、はいはい(笑)。
──
はじめて『ブラック・レイン』を観たのは
20年以上前だと思うんですが、
それからずっと、
若き日の國村さんがご出演されていたとは、
知らずにいました。
國村
そうでしょうね。出番、短いですから。
──
後になって出てらっしゃることを知り、
目を皿のようにして観て、
「わあ、この場面だったのか!」と。

何せ松田優作さんと、内田裕也さんと、
國村隼さんの3人が‥‥。
國村
濃いよね(笑)。
あのときは、まだ、ぼくも「33」で。
──
そういう年齢でしたか。
國村
もう、30年くらい前になりますから。

ぼくにとって、あの映画は、
ひとつのターニングポイントでした。
──
それは、どのような意味で?
國村
ぼくは舞台からはじめた人間ですけど、
あの映画に出て、はっきりと、
映像のおもしろさを知り、
自分は映像をやろうって決めたんです。

自分は映像をやりたいんだって、
わからせてくれた作品、と言いますか。
──
それだけ、インパクトがあった。
國村
ありました。『ブラック・レイン』よりも
さらに10年くらい前、
井筒和幸監督の『ガキ帝国』という作品で、
はじめて映画を経験したんです。

で、そのときに思ったのは、
「映画って、なんて大変なんだ!」という。
──
ああ、そうですか。
國村
まあ、あれだけの低予算で、
きっと、撮影の細かい許可取りなんかも
しなかったんだろうから、
当然ね、いろいろ大変だったんです。

で、次が『ブラック・レイン』なんです。
──
低予算映画から、ハリウッド映画へ。
國村
たしか『ブラック・レイン』って、
60億円くらい使ってるんです、制作費。
──
わあ、すごい。ケタちがい。
國村
大ちがいですよ。
『ガキ帝国』なんて「1000万」ですから。
──
ええと、つまり「600‥‥ぶんの1」。
國村
でも、できあがった作品を比べたら、
1000万しか使ってないから、
そのぶん『ガキ帝国』がつまらんか、
って言ったら、
そんなことは、まったくないんです。

同じように、60億も使ったからって、
『ブラック・レイン』が
『ガキ』の600倍おもしろいかって、
そないね、別に、
かけたお金の多い少ないじゃあない。
──
そうなんでしょうね。
國村
もちろん、映像の厚みだったりとかね、
ストーリーの壮大さとかね、
いろんな意味では、
ちがうと言えば、ちがうんですけども。
──
はい。
國村
なにせ『ガキ帝国』なんて、それこそ、
おまわりさんが来たら、
みんなでワ~っと逃げるような現場で。
──
撮影の許可を取ってないから(笑)。
國村
逆に『ブラック・レイン』の撮影では、
ポリスがガードしてくれるんです。
──
わ、いわゆる「ニューヨーク市警」が。
とにかく、まるきり正反対です(笑)。
國村
それも映画、あれも映画。
おもしろいもんだなあと思いました。

そこで
「あれ? ちょっと待てよ」と。
「映画って、おもしろいぞ」と。
──
なるほど、そういう意味で、
映像や映画のおもしろさを知った‥‥と。

これは絶対に聞こうと思ってきたんですが、
松田優作さんて、どのような方でしたか。
國村
なぜ『ブラック・レイン』が
自分の「ターニングポイント」なのかと、
その大きな理由は、
やはり「松田優作」という人の存在です。

たった1本ですけど、
あの人と一緒にやれたということが、
その後の自分にとって、
どれだけ、大きかったかと思います。
──
それほどまでに。
國村
ロサンゼルスでの撮影では、
1カ月半くらい、滞在していたんです。

で、その間、優作さんから合計で4回、
「おまえ今夜ヒマか?」と、
「メシ食いに行くぞ」と電話があって。
──
どのような会話を?
國村
よく覚えているのは、アメリカのことを、
「映画の父の国」って言ってたこと。

おそらく「映画の母の国」は、
フランスということなんでしょうけどね。
──
なるほど。映画の父の国と、母の国。
國村
優作さんって、
10代のころに渡米されてるんですよ。
──
たしか「弁護士になれ」みたいなことを、
お母さんに言われて、でも、
すぐ帰ってきちゃった‥‥んでしたっけ。
國村
ぼくはね、思うに、
優作さんには憧れがあったと思うんです。
アメリカという国に対する、憧れが。

なぜなら、撮影している間中、
「俺はな、本当にうれしいんだよ」って、
何度もおっしゃっていたから。
──
そうなんですか。
國村
こうして「映画の父の国」に呼ばれて、
役者としてやれること、
そのことが「本当にうれしいんだ」と。

思えば、そのときすでに、
優作さんは、病気だったわけですけど。
──
そのことについては、当時は?
國村
知らなかったです、もちろん。
──
スクリーンの中の「佐藤」を見る限り、
そんな感じ、しないですもんね。
國村
しません、しません。しませんが、
相当つらかったと思います。

身体がつらいのはもちろんですが、
自分がこの先どうなるのか、
その不安も、大きかっただろうし。
──
ええ‥‥。
國村
後から、奥さまの松田美由紀さんに
聞いたことですが、
『ブラック・レイン』をやるか、
癌の治療をするか、
そういう選択だったんだそうです。

癌の治療をしたら、
アクションを演じられないからって。
──
だからこそ、よけいに
感慨が深かったのかも知れませんね。

ちなみに、演技論のようなお話も?
國村
あんまりしなかったんですが、
唯一、教えてくれたことがありました。

それはね、
「いいか、おまえ、
 将来『真ん中』をやるときがきたら」
──
真ん中‥‥。
國村
主役ね。

「いいか、おまえ、
 将来『真ん中』をやるときがきたら」
──
ええ。
國村
「何にもするな」
──
何も?
國村
そう。

「おまえが主役を張る日が来たら、
 何かしてやろうだなんて
 思うんじゃない。
 真ん中は、何にもするな。
 それは、まわりがやってくれる」

<つづきます>

2018-09-06-THU

写真:大森克己
感想をおくる

ぜひ、感想をお送りください。
國村隼さんにも、おとどけします。

俳優の言葉。