- ──
- 昨晩、國村さんにお話をうかがうので、
何か観ようと思って、考えて、
『ブラック・レイン』を観てきました。
- 國村
- あら、はいはい(笑)。
- ──
- はじめて『ブラック・レイン』を観たのは
20年以上前だと思うんですが、
それからずっと、
若き日の國村さんがご出演されていたとは、
知らずにいました。
- 國村
- そうでしょうね。出番、短いですから。
- ──
- 後になって出てらっしゃることを知り、
目を皿のようにして観て、
「わあ、この場面だったのか!」と。
何せ松田優作さんと、内田裕也さんと、
國村隼さんの3人が‥‥。
- 國村
- 濃いよね(笑)。
あのときは、まだ、ぼくも「33」で。
- ──
- そういう年齢でしたか。
- 國村
- もう、30年くらい前になりますから。
ぼくにとって、あの映画は、
ひとつのターニングポイントでした。
- ──
- それは、どのような意味で?
- 國村
- ぼくは舞台からはじめた人間ですけど、
あの映画に出て、はっきりと、
映像のおもしろさを知り、
自分は映像をやろうって決めたんです。
自分は映像をやりたいんだって、
わからせてくれた作品、と言いますか。
- ──
- それだけ、インパクトがあった。
- 國村
- ありました。『ブラック・レイン』よりも
さらに10年くらい前、
井筒和幸監督の『ガキ帝国』という作品で、
はじめて映画を経験したんです。
で、そのときに思ったのは、
「映画って、なんて大変なんだ!」という。
- ──
- ああ、そうですか。
- 國村
- まあ、あれだけの低予算で、
きっと、撮影の細かい許可取りなんかも
しなかったんだろうから、
当然ね、いろいろ大変だったんです。
で、次が『ブラック・レイン』なんです。
- ──
- 低予算映画から、ハリウッド映画へ。
- 國村
- たしか『ブラック・レイン』って、
60億円くらい使ってるんです、制作費。
- ──
- わあ、すごい。ケタちがい。
- 國村
- 大ちがいですよ。
『ガキ帝国』なんて「1000万」ですから。
- ──
- ええと、つまり「600‥‥ぶんの1」。
- 國村
- でも、できあがった作品を比べたら、
1000万しか使ってないから、
そのぶん『ガキ帝国』がつまらんか、
って言ったら、
そんなことは、まったくないんです。
同じように、60億も使ったからって、
『ブラック・レイン』が
『ガキ』の600倍おもしろいかって、
そないね、別に、
かけたお金の多い少ないじゃあない。
- ──
- そうなんでしょうね。
- 國村
- もちろん、映像の厚みだったりとかね、
ストーリーの壮大さとかね、
いろんな意味では、
ちがうと言えば、ちがうんですけども。
- ──
- はい。
- 國村
- なにせ『ガキ帝国』なんて、それこそ、
おまわりさんが来たら、
みんなでワ~っと逃げるような現場で。
- ──
- 撮影の許可を取ってないから(笑)。
- 國村
- 逆に『ブラック・レイン』の撮影では、
ポリスがガードしてくれるんです。
- ──
- わ、いわゆる「ニューヨーク市警」が。
とにかく、まるきり正反対です(笑)。
- 國村
- それも映画、あれも映画。
おもしろいもんだなあと思いました。
そこで
「あれ? ちょっと待てよ」と。
「映画って、おもしろいぞ」と。
- ──
- なるほど、そういう意味で、
映像や映画のおもしろさを知った‥‥と。
これは絶対に聞こうと思ってきたんですが、
松田優作さんて、どのような方でしたか。
- 國村
- なぜ『ブラック・レイン』が
自分の「ターニングポイント」なのかと、
その大きな理由は、
やはり「松田優作」という人の存在です。
たった1本ですけど、
あの人と一緒にやれたということが、
その後の自分にとって、
どれだけ、大きかったかと思います。
- ──
- それほどまでに。
- 國村
- ロサンゼルスでの撮影では、
1カ月半くらい、滞在していたんです。
で、その間、優作さんから合計で4回、
「おまえ今夜ヒマか?」と、
「メシ食いに行くぞ」と電話があって。
- ──
- どのような会話を?
- 國村
- よく覚えているのは、アメリカのことを、
「映画の父の国」って言ってたこと。
おそらく「映画の母の国」は、
フランスということなんでしょうけどね。
- ──
- なるほど。映画の父の国と、母の国。
- 國村
- 優作さんって、
10代のころに渡米されてるんですよ。
- ──
- たしか「弁護士になれ」みたいなことを、
お母さんに言われて、でも、
すぐ帰ってきちゃった‥‥んでしたっけ。
- 國村
- ぼくはね、思うに、
優作さんには憧れがあったと思うんです。
アメリカという国に対する、憧れが。
なぜなら、撮影している間中、
「俺はな、本当にうれしいんだよ」って、
何度もおっしゃっていたから。
- ──
- そうなんですか。
- 國村
- こうして「映画の父の国」に呼ばれて、
役者としてやれること、
そのことが「本当にうれしいんだ」と。
思えば、そのときすでに、
優作さんは、病気だったわけですけど。
- ──
- そのことについては、当時は?
- 國村
- 知らなかったです、もちろん。
- ──
- スクリーンの中の「佐藤」を見る限り、
そんな感じ、しないですもんね。
- 國村
- しません、しません。しませんが、
相当つらかったと思います。
身体がつらいのはもちろんですが、
自分がこの先どうなるのか、
その不安も、大きかっただろうし。
- ──
- ええ‥‥。
- 國村
- 後から、奥さまの松田美由紀さんに
聞いたことですが、
『ブラック・レイン』をやるか、
癌の治療をするか、
そういう選択だったんだそうです。
癌の治療をしたら、
アクションを演じられないからって。
- ──
- だからこそ、よけいに
感慨が深かったのかも知れませんね。
ちなみに、演技論のようなお話も?
- 國村
- あんまりしなかったんですが、
唯一、教えてくれたことがありました。
それはね、
「いいか、おまえ、
将来『真ん中』をやるときがきたら」
- ──
- 真ん中‥‥。
- 國村
- 主役ね。
「いいか、おまえ、
将来『真ん中』をやるときがきたら」
- ──
- ええ。
- 國村
- 「何にもするな」
- ──
- 何も?
- 國村
- そう。
「おまえが主役を張る日が来たら、
何かしてやろうだなんて
思うんじゃない。
真ん中は、何にもするな。
それは、まわりがやってくれる」
<つづきます>
2018-09-06-THU
写真:大森克己