- ──
- 『ブラック・レイン』の撮影のときに、
映画の現場における役者とは、
パーツやピース、素材だと思ったって、
先ほどおっしゃっていました。
- 國村
- ええ。
- ──
- でも、観ている側のぼくたちとしては、
『パンク侍』の猿回し奉行でも、
『哭声/コクソン』の怪物でも、
『ハロー張りネズミ』の
中華料理屋のオヤジさん役でも、
國村さんがやるから楽しみだと思って、
観ているんです。
- 國村
- それは、非常にありがたいことですね。
ただ、演じる自分としては、
國村の顔を出したら大失敗だと思って、
やっています。
- ──
- それは「依り代」だから?
- 國村
- やっぱり、中華料理屋のオヤジさんが、
そこにいなければダメなんです。
そうじゃなかったら、
國村がコスプレしてるというだけです。
- ──
- なるほど。コスプレ‥‥(笑)。
- 國村
- そんなもん、
見てもおもしろくも何ともないよって、
ぼくなんかは、思います。
ただ、俳優の仕事論って、
それこそ俳優の数だけあると思うんで。
- ──
- そうですか。
- 國村
- セリフに対する態度や意識、
もっと単純に
セリフの「覚え方」ひとつにしたって、
是非の区別はないし、
ましてや正解不正解なんかありません。
その役者の演技を観て、
楽しんでくれるお客さんがいるならば、
成立する仕事なんです。
- ──
- 俳優さんって、
ひとりひとりが、自分の看板を掲げて、
やってらっしゃるわけだから‥‥。
- 國村
- そうですね。
- ──
- その人なりの流儀ややり方がある、と。
- 國村
- その役、その作品に、どう取り組むか。
あるキャラクターを、どうつかまえて、
どのように表現するか‥‥
アプローチの方法論は、さまざまです。
- ──
- 國村さんの場合は?
- 國村
- よく「役づくり」と言われますけど、
ぼくは、
「役」は「つくる」もんじゃないと
思っています。
- ──
- つくるものでないとすれば?
- 國村
- キャラクターなんて、
自分がつくり出せるものではないって、
ぼくは思っています。
とうぜん「脚本」は物語なのですが、
「台本」は、活字の羅列です。
そこから、脚本つまり
物語の中に存在すべきキャラクターを、
どこまで感じることができるか。
- ──
- 感じる。
- 國村
- 脚本から、キャラクターを、
どれだけ、立ち上げることができるか。
- ──
- なるほど。
- 國村
- それは「つくる」作業では、ないんです。
脚本から感じて、活字からイメージした、
その人の「存在」というべきもの、
その人のエネルギーの塊みたいなものを、
おなかのあたりに収められたら、
現場に出る準備ができたということです。
- ──
- 準備ができたことは、わかるんですか。
- 國村
- わかります。
それがないと現場に行けない。怖くて。
- ──
- 役とは役者が「つくる」のではなく、
脚本と徹底的に向き合うことで、
時間をかけて「立ち上がってくる」もの。
- 國村
- その部分は、たった一人の作業です。
現場へ行くまでは、一人だけの仕事。
このことについては、
たぶん、どの俳優も一緒やと思います。
- ──
- 十人十色の俳優ではあるけれど。
- 國村
- 俳優という人種は、現場に入るまでが、
いちばん仕事をしているかもしれない。
- ──
- 頭の中で、忙しくしてるんですね。
実際に演技するわけではないけど。
- 國村
- しっかり「その人」が立ち上がっていれば、
あとは、撮影の現場では、
「その人」が、話したり動いたりするだけ。
たいした仕事はしていないとも、言えます。
- ──
- つまり「演技に入る前」こそが、
俳優さんの仕事では重要な部分なんですね。
- 國村
- そうやって個々の俳優の持ち寄った役柄が、
現場で、ぶつかりあうわけです。
そして、ぶつかってどうなるか、
それをどう楽しむかなんです。ぼくの場合。
- ──
- 相手のキャラクターが、
ちょっと予想外の感じだったりとかも‥‥。
- 國村
- もちろん、あります。しょっちゅうですよ。
- ──
- それは、スリリングですね。
- 國村
- でも、ぼくが自分の腹に、
間違いなくブレないキャラクターを
収めて臨んでいれば、
自分がどうとかは関係なく、
「その人」がリアクションするので。
大丈夫です。
- ──
- 俳優とは、「その役を生きる」‥‥
というようなものなのでしょうか。
- 國村
- うん、自分も相手も生きているから、
予定調和じゃつまらないです。
相手がまったく突拍子もないほうが、
断然おもしろいです。
- ──
- ライブの感覚ですね。
- 國村
- そうです。舞台のお芝居とは、
また別の意味で、そこはライブですね。
カットからカットまでの間は、ライブ。
脚本があって、
全員どんなシーンなのか知ってるけど、
実際、何がどうバチバチっといくかは、
誰にもわからない‥‥という。
- ──
- はー‥‥。
- 國村
- おもしろいですよ。
- ──
- 同じ「演技」するのでも、
舞台と映像って、やはりちがいますか。
- 國村
- あのね、映像からデビューした俳優が
どこかで、舞台に対して、
コンプレックスを持ってしまうことが
あるんです。
- ──
- なんとなく、わかる気がします。
- 國村
- で、自分も舞台やりたいやりたいって
手を挙げてやって、
で、舞台から戻ってきたときに、
せっかく映像のときによかった部分が
壊れちゃってることもあって。
- ──
- 映像のときによかった部分?
- 國村
- ナチュラルさとかセンシティブさが、
微妙な表現につながっていたのに、
何かやってやろうという思いが
ぶくぶく肥大して、
もともと持っていた映像的な良さを
ぶち壊しちゃってる、みたいな。
- ──
- 大げさな演技‥‥ってことですか?
- 國村
- そうですね‥‥プロの俳優であれば、
何らかの「意図」を持って、
その役柄やキャラクターを演じます。
- ──
- 意図。
- 國村
- このセリフや身振りを通じて、
自分は、観客に、何を伝えたいのか。
自分は、この人をどう見せたいのか。
それって「意図」じゃないですか。
- ──
- 漫然とは演じられない‥‥と。
- 國村
- でも、その「俳優の意図」が、
見えてしまったら、ダメなんですよ。
- ──
- なるほど。
- 國村
- そうなったとき、演技は説明的になる。
俗に言う「くさい芝居」というものに、
なってしまっていると思います。
- ──
- くさい芝居‥‥。
- 國村
- 「大げさ」という意味だけではなくて、
「ほらほら、わかってます?
ここは、こう思ってほしいんですよ」
なんて説明的な演技、
押し付けがましくて嫌じゃないですか。
ぼくは、そういう演技が
「くさい演技」だと思っています。
<つづきます>
2018-09-09-SUN
写真:大森克己