※『かないくん』は、ほぼ日ストアのほか、大手ネット書店や全国のほぼ日ブックス取扱店でも販売いたします。
※ ほぼ日ストアでご購入に限り、谷川俊太郎さんのメッセージや松本大洋さんのラフスケッチが掲載された
「かないくん 副読本」(非売品)が購入特典としてついてきます。
こんにちは、ほぼ日刊イトイ新聞の菅野と申します。
「『かないくん』ができるまで」のルポを担当します。
初期の頃、写真を特に撮っていなかったので、
文中の説明イラストも菅野が描きます。
連載の中では、物語の筋には
ふれないようにつとめますが、
発案者の糸井重里が前提として考えていた本のテーマは
この第1回にお伝えします。
さて、2011年11月4日夜7時。
いまから2年少し前の秋に、時間はさかのぼります。
私たちは、谷川俊太郎さんのご自宅の近くの
「竹八」さんにいました。
↑ メンバーは、俊太郎さん、糸井、
「ほぼ日」編集担当の永田、菅野です。
実はこの1年ほど前から
「ほぼ日」ではちいさなグループをつくり
絵本を発刊したいと考えてきました。
そして、絵本の最初の書き手として、
自分たちが強く希望したのが、
詩人の谷川俊太郎さんでした。
糸井重里は私たちにこう言いました。
「谷川俊太郎さんには、死をテーマにした
お話を書いてもらいたいです」
おお。
最初の絵本の編集担当として手を挙げた
永田と私は顔を見合わせました。
そしてもちろん、糸井の考えに同意しました。
谷川俊太郎さんは、もうすぐ
満80歳を迎えられる(当時です)。
死については、どんなことを考えておられるのだろう。
そして、死ぬことを考えることは、
生きることを考えることだ。
そして、俊太郎さんに原稿を依頼するため、
俊太郎さんのご自宅を訪れ、
食事を申し入れたのでした。
焼魚をつつきつつ、場はとてもなごやかでした。
糸井と永田は一人前ずつの定食を頼もうとしたのに、
俊太郎さんは
「少しずついろんなものをとって、半分こしよっか」
とおっしゃいました。
しかし、死をテーマに物語を書く、ということについて
俊太郎さんは
「まかせておけ」という態度ではありませんでした。
いま、死については
こういうよい書物が出たところだ。
また、死について、自分は過去に
こういう詩を書いてきた。
というようなことを、俊太郎さんは
食事の席でおっしゃいました。
だめなのかな、断られる気がするな、と、私は思いました。
糸井は言いました。
「普遍的なことでなくていいんです。
むしろ、谷川さんがいま、身近な誰かに、
死というものはこういうことなんだよ、と
語りかけるような内容がいいのです」
食事が終わり、俊太郎さんは
地下鉄の駅まで私たちを送ってくださいました。
そして階段の手前で、最後に
「ま、考えておきますよ」
と手を振りました。
糸井は微笑んで手を振り返していました。
秋の夜風が、気持ちよく吹いていました。
そして、1か月後。
2011年12月17日に、
俊太郎さんと糸井はふたたび会うことになりました。
鳥取のホスピス野の花診療所の
徳永院長に招かれて、
トークイベントをすることになったのです。
そのようすは「ほぼ日」でも記事になりました。
「ほぼ日」の記事制作のため、私も同行しました。
↑ そのときのふたりです。
羽田空港の搭乗口で、鳥取行きの飛行機を待っているとき、
俊太郎さんが声をかけてきました。
「これ、この前の」
俊太郎さんの手には、A4の紙が入った
クリアファイルがありました。
「糸井さんが言ってたやつ。
あの晩、別れてすぐ、そのまま書いちゃった」
「え?」
「だから、絵本の」
「ええ?」
「糸井さんから頼まれたんだし、
やんなきゃさ。
忘れても困るし、すぐやっちゃったよ」
「わぁああ」
とりいそぎお礼を伝え、
その日のところは、俊太郎さんと糸井に
イベントに集中してもらうため、
自分も内容を見ないまま、鳥取出張を終えました。
原稿を読んでしまうと、どうしてもそのことについて
黙っていられない気がしたのです。
鳥取の夜、
トークイベントの打ち上げ兼
谷川俊太郎さんの80歳の
おたんじょうパーティーをしました。
たくさんの人がワインを飲んて、陽気になっていました。
息子さんの谷川賢作さんもいらっしゃって、
これからの詩やクリエイティブについても
たくさん話をしました。
そして、私は東京に戻り、
例のクリアファイルを開きました。
私はそれまで谷川俊太郎さんの対談を
何度か原稿にまとめたことがありました。
なかでも、詩人の覚和歌子さんとの対談
「だからからだ」を担当したときには
俊太郎さんの死生観に少しふれた気がしていました。
俊太郎さんの若いころの詩にこんなものがあります。
「空の青さをみつめていると
私に帰るところがあるような気がする」
そして、こう聞いたこともありました。
「青空は、有限の人間の肉体に対して、
永久にそこにあるもののような気がします。
人間は、そういうものと戦って生きていく
というような意識が、若いころのぼくにはありました」
「感覚器官がなくなるんだから、死ねば、
視覚、聴覚、嗅覚なんかじゃない方法で
外とつながるんですよね」
絵本もきっと、そういうお話になるのかなぁ、
と思っていました。
でも、俊太郎さんは過去にこうも言っていたのです。
「でも最近、現実認識がタフになってきたから
青空ひとつじゃ、ぼくは泣かなくなってきたんだよ」
そして、鳥取から持ち帰ったクリアファイルの原稿を
テキストデータに落とし込む作業をはじめました。
青空の詩から連想するような内容とは
ちょっと違っていたので、驚きました。
タイトルは『かないくん』。
具体的に、ひとりの登場人物が、まずいます。
原稿をうつしながら、考えました。
この話‥‥いったいどうすれば
絵本になるのだろうか‥‥?
そして、改めて、絵を、
誰に描いてもらえばいいのか?
絵について、私たちは
まったく考えていなかったわけではありませんでした。
最初から、俊太郎さんの死の絵本にはこの人がいい、と
思っていた人がいました。
でも、実際にお話を読んで、
そのむずかしさ(=作業が大変になるだろうという想像)ゆえ、
少し迷いはじめたのです。
糸井は「最初に考えていたその人」でいいのではないか、
と言いました。彼しかいないだろう、と。
それは、漫画家の松本大洋さんです。
松本大洋さんのお母さんである
工藤直子さんと谷川俊太郎さんは、古くからのご友人です。
大洋さんと俊太郎さんは、
過去にお会いになったこともあるようでした。
しかし、大洋さんは漫画の連載もお持ちで、
受けていただけるかどうか、わかりません。
そもそも、「絵本」というものを
描いていただくことができるのかどうかも──。
大洋さんには、
『ボールのようなことば。』で
装画を依頼していた永田からすぐに連絡を取りました。
まず、申し入れた直後の大洋さんからの反応は
「少しむずかしいかもしれません」
というものでした。
何度かやりとりしたあと、
大洋さんから、永田のもとに次のようなメールが来ました。
2012年3月9日のメールより
かないくん、ですが、あらためて読むと、
やはり凄いお話ですね。
これだけ死、について直接的な物語に対し、
死を薄ぼんやりと、遠くに考えている自分に、
どんな絵が描けるかな、と思ったりしています。
あと、時間的な事なのですが、
いま連載している漫画の次章の終わりまでは、
しっかりとした作業に着手できません。
具体的には九月の中頃までは、
ただウロウロと、文章が求める絵を
頭の中でまさぐるだけの日々になります。
スケジュール的に、ちょっと厳しいなー、
という事でしたら、
またいつかのタイミングで、
何かご一緒できたらと思います。
大洋
大洋さんは雑誌『IKKI』に
『Sunny』の何章目かを連載中でした。
もちろん、その期間は『Sunny』の連載に
没頭しなくてはなりません。
でも、大洋さんがいい。
糸井も、永田も、私も、そう思いました。
大洋さんの絵で、『かないくん』を見てみたい。
永田は返信を書きました。
2012年3月12日のメールより
9月半ばに、もう一度、お話しさせてください。
ただ、それを
「9月半ばまで待てば大洋さんが描いてくださる」と、
ぼくらが早合点しているわけではありません。
とりわけ、これから数か月間は
大洋さんが自作に埋没するための大切な時期です。
その先に、大きな約束を抱えていると
思って欲しくありません。
『Sunny』の次章を描き終えたとき、
どういう状況、どういう心境にあるか、
わからないと思います。
ひょっとしたら、「ちょっと、なにも描きたくない」
っていうことにだって、なってないとは限らないですよね。
なので、9月半ば、というか、
大洋さんがつぎのインターバルに入ったとき、
「かないくん」のことを、もう一度、
イチからお願いさせてください。
時期が来れば改めてお話しよう、
ダメだったら、そのときに考えればいい。
『かないくん』は、やるとなれば
かなりの労力と時間が必要なものになる。
無理にねじこむ仕事ではありません。
大洋さんからの返信は、翌日に返ってきました。
(つづく)
2014-02-17-MON
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