第10回 「荒川静香、長野から8年の思い」
永田 フリープログラムに入るところでは、
サーシャ・コーエンが僅差の1位。
そして、スルツカヤ、荒川の順位。
そう考えると、フリーは、
順番がすごくよかったというか。
刈屋 順番は最高でしたね。
永田 まず、最終グループで
トップのサーシャ・コーエンが滑る。
荒川選手は、それを見て
一か八かで最高点を目指すのか、
ひとつ落としてもいいのかということを選べた。
刈屋 選べた。
まずサーシャ・コーエンが滑りましたが、
ミスをふたつした。
そのことによって
荒川は無理をしなかったんですね。
3回転ー3回転を、3回転ー2回転にして、
さらに、3回転を2回転にした。
永田 はい。
刈屋 そこまで無理をしなかったということは
「荒川は金をとりにいっていない」
ということですよ。
永田 えっ!? そうですか。
刈屋 そうです、そうです。
だって、最後にスルツカヤがいるわけですから。
もし金メダルをとりにいくのであれば、
サーシャ・コーエンのあとで
「よし!」と挑戦するはずなんです。
もうサーシャ・コーエンは失敗をしたから
じぶんもひとつ失敗をしても
大丈夫だということで
3回転ー3回転を2回入れてきますよね。
そこまで最高点を目指さないにしても、
少なくとも1回は入れてきます。
永田 ふたつ落とすことはない。
刈屋 ふたつ落とすことはない。
1回入れてくれば、スルツカヤも最低1回は
入れてこないといけないことになるんです。
でもそれをしなかったということは
「銀メダルでいい」と。
永田 あああああ。そうか。そうなんですか。
すごい話ですよね、それ。そうかあ。
刈屋 そういう判断ですよね。
だから、荒川静香はあの時点で
金を狙っていたわけではないということです。
永田 「選ばれた」んだ、じゃあやっぱり。
刈屋 だから、まあメダルがとれればいい、と。
しかもサーシャ・コーエンが失敗してるから
うまくいけば銀をとれる。
でも、いちばんほんとうのところは、
「最高の演技をすればいい」という
それくらいの気持ちですよね。
永田 それが、あの、滑る直前の、
「入れ込んでない感じ」というか。
刈屋 リラックスしてました。
で、これは、解説者の五十嵐(文男)さん
が言っていたことですが、
ああいう状況で
「自分の最高の演技をすればいい」
というところまでの精神状態に
持っていくのは奇跡に近い、と。
永田 あああ、はい。
刈屋 だって、4年に1回、
彼女にとっては最後のオリンピック、
その最終グループです。
しかも、サーシャ・コーエンがミスをして
メダルがもう目の前にあるわけです。
そういうなかで、
自分の演技に集中できるという精神状態は、
もうすごいとしか言いようがないと
五十嵐さんはおっしゃっていました。
永田 はああああ。
刈屋 やっぱりすごいことだと思うんですよ。
彼女は確実に自分の演技に
集中できていましたから。
それは金を狙っていなかったから、
というか、金メダルが関係ない領域に
自分がいたからだと思うんです。
永田 はあーーー。
刈屋 自分の演技に集中して、
その結果、メダルがとれればいい、
くらいのものだと思うんですよ。
永田 それは決して悪い意味ではなく。
刈屋 悪い意味じゃないです!
これはまったく悪い意味ではない。
消極的だとか、安全策だとか、
そういう意味ではなく、
それをさらに超越して
自分の演技に集中できたということなんですね。
永田 それはやっぱり
長野の失敗があったからでしょうか。
刈屋 はい。
長野の失敗から8年間の
彼女のいろいろな苦労が
あったからだと思います。
永田 たとえばもしもあれが初出場だったら、
金をとりに行ったかもしれない。
刈屋 金をとりに行って無理をして、
失敗をして4位になっていたかもしれない。
あるいは、
銀メダルがとれるかもしれないということで
ものすごく守りに入っていたかもしれない。
失敗しないように、失敗しないようにって。
だから、ああいう状況になるのは、
ものすごいことなんです。
ほとんど、あり得ないですね。
2度目のオリンピックで、しかも8年ぶりで、
いろんな苦労をしたことによって
到達し得た領域ですよね。
永田 いま、おっしゃったことが
刈屋さんが現場で実況された
「荒川静香、長野から8年の思い」に
込められてるわけですね。
刈屋 はい。
永田 うわぁ。そうだったんだ。
刈屋 彼女はトリノに来て、
一貫してすごくリラックスしてたんですよ。
我々のいる放送席は3階にあったんですけど、
その後ろの通路が広くなっていて、
そこに彼女はいつも
ウォーミングアップに来るんですけど、
解説の佐藤有香さんのお母さんが
彼女のコーチだったということもあって、
放送席に遊びに来るんですよ。
そのときにすごくリラックスしてて、
ショートプログラムのときは、
じぶんの衣装はどちらがいいか、
なんていう話をしていました。
そのときも、自分でカメラを回して、
「どうですかー?」なんて
ぼくらにインタビューしてたりして。
永田 へえええ。
刈屋 壁に選手がいろいろな寄せ書きをしてるのを見て
わたしも書きたい、と言って
ぼくのところから紫のペンを選んで書いて、
そこでポーズを取って、写真を撮ったりとか。
それはウォーミングアップの始まる直前ですよ。
それを見て、
「ああ、彼女はこういう領域に達してるんだな」
って思いました。
ほかの選手ではいないですよ。
あそこまでリラックスしていたのは。

2006-06-16-FRI

(C)HOBO NIKKAN ITOI SHINBUN