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永田 |
コーエンやスルツカヤが転倒した瞬間、 実況している刈屋さんは どんなふうに感じているんでしょう。 それだけ競技の展開がわかっているとなると、 日本人選手のメダルがとれそうだというときに 相手選手が転倒したら、冷静でいようとしても 感情はすごく動くと思うんですね。 たとえば、放送局によっては、 ある程度、日本人選手に肩入れをする 放送をしている場合もありますし。 |
刈屋 |
うーん、そうですね‥‥。 もしほかの国だったら やり方は違うかもしれません。 「よし、これでメダルに近づいた!」みたいな、 そういう中継をよしとする国も たぶんあるんですよね。 |
永田 |
エンターテインメントの演出として そういう手法もありますよね。 |
刈屋 |
そうですよね。 「よし、もう一回転べば、 もしかしたらふたつ取れるかもしれない」 という、中継が成り立つ国も たくさんあると思うんですけど、 日本にはなじまないんじゃないでしょうか。 |
永田 |
ああ、なるほど。 |
刈屋 |
とくに日本のフィギュアを好きなファンは、 たぶん最高の演技をみんなにしてもらいたい。 まずは、それを観たい。 そのうえで、荒川と村主が メダルを取ったらうれしい、という そういう見方をするんじゃないかな。 |
永田 |
でも、なんていうか、その、 刈屋さんは、フィギュアの知識があるから 全員が力を発揮して最高の演技をしたら 勝つのはコーエンだということが わかっているわけですよね。 |
刈屋 |
はい。 |
永田 |
で、そのなかで コーエンが最初に出て行って失敗する。 そこには、知識があるからこそ、 動いてしまう感情がありませんか。 |
刈屋 |
そのときに失敗すればいい、とか 失敗してラッキーという気持ちは、 やっぱり、ないんですよ。 これはたぶん、ぼくはもう フィギュアスケートの中継を もう10年以上やっていますから 自然とそうなってきたのかな、と思います。 これが、いきなり行って、 フィギュアの中継をやれと言われて 「ニッポンがんばれ!」 というようにやってもいいと言われたら もしかすると、 そういう気持ちになれたかもしれないですけど、 やっぱりぼくは、 サーシャ・コーエンもずっと見てますし、 スルツカヤもずっと見てるんで、 まず演技をしっかりやってほしいな、 という気持ちが先に立つんです。 |
永田 |
なるほど、なるほど。 すべての前提として、 その気持ちがあるわけですね。 |
刈屋 |
これで荒川が勝ってくれたら、とは思います。 でも、やっぱり相手のミスを望むような中継は、 たぶんフィギュア、というか 日本の風土に合わないんじゃないかと。 |
永田 |
うーん、なるほど。 |
刈屋 |
たぶん、スポーツにもよると思うんですよ。 サッカーなら、相手がPKをはずして 「よぉーし!」と思うほうが自然かもしれない。 でも、とくに採点競技である フィギュアスケートにおいては、 たぶん日本のファンは、 「ミスして勝ってくれたらいいな」 という心が少しあり、でも、 「しっかりとすごいのが見たいな」 という気持ちもあり。 |
永田 |
うん、うん。 |
刈屋 |
国の風土にもよるし、 種目によると思うんですよね、 同じ採点競技でも、 種目が違えば感じることは違うと思います。 たとえば体操の鉄棒なんかの場合には、 「落ちろ」とまでは思わないまでも、 「着地が一歩出てくれないかな」とか。 |
永田 |
ああ、それはあるかもしれない(笑)。 |
刈屋 |
そう思いながら観ている人は いるかもしれないけれども、 でも、やっぱり、実際に そういうふうに放送した場合には、 「なんだよ、このアナウンサー。 こんな下品な放送して」 というふうになるんじゃないかと思うんですよ。 たぶん、その、武士道じゃないですけど、 相手にたいして敬意を払うというのが 日本人の根底にあると思うんですね。 |
永田 |
うん、うん。 |
刈屋 |
だから自分が全力をかけて戦う相手には 敬意を払う、というのが 根底にあるのかなという気がするんですね。 自分が好きで応援する選手が 一生懸命戦う相手をバカにするということは 自分が応援する選手をも 下げてしまうことになる、という意識が 潜在的に日本の風土というか 文化のなかにあると思うんです。 応援するということは、 相手をけなすということではなく、 純粋に、応援をする。 それが日本の「応援をする」という 文化なんじゃないでしょうか。 |
永田 |
ブーイングの文化ではない。 |
刈屋 |
ブーイングの文化ではない。 と、ぼくは思うんですね。 なおかつ、そのなかでも フィギュアスケートというのは、 とくに世界のトップ選手たちの 最高の演技というのは、 ある意味で芸術作品を観るような感じで フィギュアのファンは観ているわけですね。 だから、この場で失敗しろ的な発想で 放送するのは著しく 抵抗を感じさせてしまうだろうと。 |
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永田 |
なるほど。 だから、フリーの最終グループで コーエンやスルツカヤが転倒したとしても、 実況で悩むことはなく、ふつうに。 |
刈屋 |
ふつうに「転倒した」と言う。 必要なのは、なぜ転倒したんだろう、という むしろ、そっちの説明ですよね。 |
永田 |
なるほど。なるほど。 考えてみると、 刈屋さんがそうであってくれないと、 テレビを観てるぼくらは困るかもしれません。 というのは、にわかファンとしては、 それがほんとうに失敗したのか、 希望として失敗であってほしいと 思っているだけなのか、 そのへんが瞬時にはわからないんですよ。 それこそ、3回転が2回転になった、 みたいなことは、正直、わからないんですね。 だから、刈屋さんの揺らぎとか 佐藤さんの揺らぎとかで安心したり、 どきどきしたりするわけですね。 刈屋さんが「うん!?」とおっしゃったら あ、失敗したんだ、と それではじめてわかるんです(笑)。 |
刈屋 |
ああ、そうですね。 |
永田 |
だから、刈屋さんが中立でいてくれないと たぶんぼくらも困るんですよね。 |
刈屋 |
たぶんそうですね。 もっと日本を応援する中継をしても いいんじゃないかという意見もあるんですよ。 でも、日本の視聴者というのは やっぱり相手をけなしたり、相手をざまあみろ、 というような中継は好まない。 |
永田 |
なるほど。 |
刈屋 |
と思います、ぼくは。 応援する文化だと思います。 自分たちの選手を応援する。 ブーイングする文化ではない。 そしてそれはたぶん これからも変わらないんじゃないかな。 |
永田 |
うん、なるほど。 お話をうかがっていると、 刈屋さんは実況しながらも、 自分をすごく客観視する視点があって、 しかもそれが一個じゃないんだな という気がします。 |
刈屋 |
たぶんいろんなことを 意識せざるを得ないんでしょうね。 いろんな経験から。 |