2011年11月1日、
「ほぼ日」は気仙沼に事務所を開設しました。
まずは行き来を増やすために、
ひとまず2年、と置いた事務所でした。
それから7年のあいだ、気仙沼のみなさんとともに、
「気仙沼さんま寄席」をはじめとする
さまざまなイベントを開催したり、
プロジェクトを立ち上げたりしてきました。
あの震災のすぐあともいまもずっと、
自分の力で前へ進もうとする方々の姿を見てきました。
そして、これからは立場を変えて、
あれやこれやをまたいっしょにやっていきたいと
思うようになりました。
2019年11月1日、
「気仙沼のほぼ日」の場所はなくなります。
あと1年ありますが、気仙沼、ありがとうございました。
そしてこれからもよろしく。
私たちが「気仙沼のほぼ日」の事務所を
お開きにすると決めたのは、
今年(2018年)の夏頃でした。
みなさまへの発表は、思い出深い開所の日である
11月1日(つまり本日)にすることにしました。
それに先立ち、
お世話になった気仙沼の方々に直接お会いして、
このことをお伝えしようと考えました。
とれたてのさんまを炭火で焼き、
気仙沼の銘酒をかたむけながら、
10月初旬、震災から7年半たった秋の日、
お世話になったあの方この方にお集まりいただきました。
場所は、気仙沼にあたらしく建った
斉吉さんのお店「鼎・斉吉」です。
いま、気仙沼の海側を見渡せば、
ここもあそこもあたらしく建った場所ばかりです。
この7年半、力強く歩んできた、
輝くようなみなさんの顔を鼎のお店で見ながら
我々ほぼ日スタッフは、
さまざまなことを思い出していました。
斉吉さんのおいしいものを食べては
いろんな方にマイクを回し、
お話しいただきました。
この日のみなさんの「ことば」がどんなものだったのか、
まずはお伝えしていきたいと思います。
みなさん、
本日はお忙しいなかお集まりいただき、
ありがとうございます。
気仙沼のほぼ日のサユミです。
みなさまには、まずはおたよりで、
「気仙沼のほぼ日」が
来年2019年11月1日で丸8年を迎え、
お開きになるというお知らせをさせていただきました。
今日はちょっと、
涙こらえながらになりますけれども、
お世話になったみなさまをお招きして、
いままでの感謝の気持ちと、
「あと1年よろしくお願いします」ということを
お伝えできればと思い、
この会を開かせていただくことにしました。
私が「気仙沼のほぼ日」に着任したのは、
開所から半年ほど遅れた2012年の4月でした。
長いあいだお世話になったみなさまに、
こうしてお集まりいただいてお礼が言えること、
とてもありがたく思っております。
本日は、斉吉さんのおいしいお料理とともに、
心ゆくまでおしゃべりしたいと思います。
本日の会場をご用意くださった
斉吉の斉藤和枝さんからも、
ひと言いただけますでしょうか。
みなさま、おばんでございます。
このように、斉吉の鼎店で
「気仙沼のほぼ日」のお開きの会を
やっていただくというのは、ほんとうに光栄です。
気仙沼のみなさんは、いつも
「ほぼ日」のみなさんに会いたくて会いたくて、
今日は特にどんどん人が増えました。
本来、ここでお受けできるような人数では
ぜんぜんないんです。でも、そこを曲げて、
外まで席をのばしてご辛抱いただくことを、
すこし寒いですけれども、
おゆるしくださいますように。
そうそう、その外の席ですが、
万丈篭が逆さまにして置いてありますね?
板が載っていますけれども、
「あれ、なんだべ?」と思われるかもしれません。
私たちは、糸井さんにはじめてお会いしたとき、
あのようにしてさんまを食べていただきました。
その思い出を再現してみた、ということなんです。
あの、お手洗いの手を洗うこともできないような時期に、
ウエットティッシュでみんなで手をふいて、
万丈をひっくりかえしてさんま焼いて、
糸井さんやお客さまに食べていただいた。
ちょっとボロッとしてますが、
今日もおんなじように、あの万丈篭でみなさんに
さんまや帆立をお召し上がりいただければと思います。
「ほぼ日」さんが気仙沼においでくださったおかげで、
私たちはこれまでなかった視点を
たくさんいただくことができました。
それは、なによりの財産だと思っています。
ごめんなさい、気持ちがいっぱいになってます。
たぶん今日は、ここの店が
はち切れそうな夜になると思います。
みなさん、こんばんは。
ぼくはこんなに「知った顔ばかりのパーティー」に
参加するのははじめてです。
こんなことは、ないです。
昨日の夜、
「気仙沼のごはんの会の名簿ができました」と
うちの社員から渡されて、
参加不参加のお名前の一覧を見て、
名前見るだけで泣けてしまって‥‥ダメだね、
これは、すみません。
この7年、ぼくらのほうが
「ありがとうございました」ということが多かったです。
‥‥‥‥すみません、市長に先に
乾杯の音頭を取っていただいていいでしょうか。
もういちどあとで復活して、
ごあいさつさせていただきます。
被災して7年半、気仙沼市の復興は、
「気仙沼のほぼ日」があって、やってきました。
そのことがいかに幸福なことだったかを、
今日は実感できる日だと思います。
そしてそれは、糸井さんの強い思いが
中心になっていたということも、
いま、確認できたのではないでしょうか。
さきほど和枝さんから、
いろんな視点をいただいた、とお話がありました。
その視点を「これだ!」と会得するのは
すごく難しいと思います。
しかし、私がこれまで
おつきあいさせていただくなかで、
はっきりしたことがひとつだけあります。
それは、糸井さんは、
「たのしくないことには興味を示さない」
ということです(笑)。
それがおそらく、糸井さんの視点のもとにある、
大きな秘訣なのだろうなと思います。
残念ながら来年で「気仙沼のほぼ日」は
姿を消すということになります。
しかし、人の縁はもちろん続きますし、
糸井さんのさまざまな考え方や行動力に、
今後も学ばせていただくことが多いと思います。
気仙沼の復興も、まだまだ続きます。
「気仙沼のほぼ日」という場所が
あと1年でなくなるという今日の区切りが、
「終わりのはじまり」ではなく、
「はじまりのはじまり」という気持ちでいたいと思います。
縁のあったみなさんがたで、
今日は杯を上げたいと思います。
「気仙沼のほぼ日」、たいへんありがとうございました。
乾杯!
さきほどはすみませんでした、再び糸井です。
今日はぼくらのことで集まってくださったかたちに
なっていますが、
これだけのみなさんが揃ってくださっているところで
お礼を言えるという、こんな機会はなかなかないんで、
この機会があっただけでも、
まずはありがたいと思っています。
ここまでのあいだ、ほんとうにすごいことを
みなさんは成し遂げられたんだと思います。
さきほど和枝さんがお話しになったように、
最初にブルーシートだらけの斉吉さんを訪れたとき、
さんまを焼いてもらいました。
正直いって、
まず「食べていいんだろうか」と思いました。
東京では食べられないような時季に
さんまを焼いていただいて、これがまたおいしくてね。
しかしぼくらは被災地にお見舞いに来たはずで、
つらい思いをしている人が
「自慢のおいしいものを食べさせてやりたい」
という気持ちで迎えてくれていることに対して、
どんな感情を抱けばいいのかわかりませんでした。
でも、ありがたくてうれしくておいしかった。
斉吉のみなさんは、あかるくたのしそうに
さんまを焼いてくださって、
なんだかひっくり返しの世界にいるような気持ちでした。
その後、アンカーコーヒーの小野寺やっちさんが
ご自宅で気仙沼ホルモンを焼いてくださいました。
目の前でどんどんホルモンが焼けていく。
ぼくらはそれを食べる。
そのときにも「いいのか、これは」という
気持ちがありました。
ぼくばかりじゃない。
きっと日本じゅうの人たちが被災地に行くとき、
「何ができるだろう」「何を持っていけばいいだろう」
と考えたでしょう。
やっちさんは、当時から
話しやすい方だったので、訊ねてみました。
するとやっちさんは、
「俺たちは、ごちそうしたいんだよ」
とおっしゃいました。
被災したし、これから大変なことはいっぱい待っている。
すぐそこに、まだ水がたまっている。
そのなかでも「したい」とやっちさんはおっしゃった。
もちろん被災地でぼくらが実際に身を動かして
できることはたくさんあります。
しかし、人が健康に生きていくためには、
何かをもらって「ありがとう」と
感謝しているだけでは不自由なのかもしれない。
誰かから「ありがとう」と言ってもらうことも、
人間の権利なんだ。
ぼくはそのとき、ほんとうに心から、
大切なことがわかりました。
その後、ぼくは迷わずに
気仙沼の人たちとのおつきあいを、
わがまま放題にやってきました。
そのおおもとには、
「ごちそうしたいんだよ」という
やっちさんの言葉があったと思います。
気仙沼のみなさんのそういう気質もあって、
これまでいろんなことを
いっしょにやってこられました。
つらい目に遭った人がたくさんいたのは事実です。
しかし、「つらい目に遭ったこと」と
「かわいそうなこと」は違う。
かわいそうな人はいない。
そう思えたし、つらかった人たちが
これから元気に進んでいくために
ぼくらが少しでもお手伝いできればと思って
これまでやってきました。
数日前に、立川志の輔さんとごはんを食べながら
この「お開き」についてお話ししました。
さんざん思い出話をして、
ちょっと年寄り同士なもんで、
その夜はふたりで涙もろくなりました。
振り返れば、あの2012年3月の気仙沼さんま寄席で、
気仙沼の人たちは、外の人を準備して迎えて
「ここでいろんなもの見てたのしんでってね」
という大きな役をしてくれました。
あの早い段階で、です。
あれはやっぱり「かわいそうな人たち」にさせる
仕事ではありません。
「気の毒な人にずいぶん働かせるんだな」
と、当時は思われたかもしれない。
でも、それがやりたかったんだということを、
そのときのぼくらは知っていました。
でもそういったことは、普通に仕事をやっていく以上に、
アイデアが必要なことでもありました。
そのときどきで新しいことにぶつかっては、
「いまは何をしていくのか」について考えました。
最後にいちばんぼくが大きく関わったのは、
「相馬で気仙沼産さんま寄席」でした。
早めにたちあがった気仙沼の人たちが、
こんどは福島の相馬に出向いていって
志の輔さんの寄席の手伝いをする、という場でした。
この7年のあいだ、
ぼくらのほうにも得がたい経験がありました。
ゼロから何かを考えたり、実行していくことは、
自分たちの思考がずいぶん鍛えられることになりました。
ですから、「ほぼ日」という会社は
気仙沼という場所を
「外にある大きな開発室だ」と
とらえてきました。
社会的な貢献という位置づけともちがいます。
気仙沼の人たちといっしょになって、
何をどうしたらいいかを考えていくことが、
あたらしいアイデアを生む開発室の機能を
持っていたのです。
ですからつねづねうちの社員にも、
「気仙沼のことにかかる経費は
宣伝でも慈善活動でもない、開発費だぞ」
と言ってきました。
今日の会はどうしても
お別れのイメージになってしまいますが、
「気仙沼のほぼ日」がなくなるまでは、あと1年あります。
1年は長いです。
うちの社員たちは、それぞれがこの1年をかけて、
あたらしい企画をやってくれると思います。
ぼくも仕事という名目で、
友だちをからかいにきたりすると思います。
お開きの日が過ぎても、まだ来ます。
気仙沼ニッティングも
東北ツリーハウス観光協会もあります。
社員たちもそれぞれやっぱりずっと来るでしょう。
当然、いろんなことが続いていきます。
あの「気仙沼のほぼ日」は、当時、
「俺たちはすぐいなくなったりしないから」という
約束手形のようなつもりで借りました。
大家さんにはうるさくして迷惑かけたかもしれないし、
「2年で出ていきます」と言ったくせに出ていかないし、
ご心配をおかけしたと思っています。
ほんとうにこんなに長く
お世話になると思っていませんでした。
でも、ここにきて改めて、
知恵や力を貸し合うほんとうの友人に戻って、
行ったり来たりができるかなぁ、と思います。
気仙沼という町が、
あのときの日本にあってよかったと
誇れるようになりたいですし、
「ほぼ日」のぼくらは負けないように、
あの会社があってよかったと言われるように
育っていきたいです。
来年の11月まで、
またいろんなことでご迷惑かけますが、
どうぞよろしくお願いします。
(明日に続きます)
2018-11-01-THU