2011年11月1日、
「ほぼ日」は気仙沼に事務所を開設しました。
まずは行き来を増やすために、
ひとまず2年、と置いた事務所でした。
それから7年のあいだ、気仙沼のみなさんとともに、
「気仙沼さんま寄席」をはじめとする
さまざまなイベントを開催したり、
プロジェクトを立ち上げたりしてきました。
あの震災のすぐあともいまもずっと、
自分の力で前へ進もうとする方々の姿を見てきました。
そして、これからは立場を変えて、
あれやこれやをまたいっしょにやっていきたいと
思うようになりました。
2019年11月1日、
「気仙沼のほぼ日」の場所はなくなります。
あと1年ありますが、気仙沼、ありがとうございました。
そしてこれからもよろしく。

とにかく明るいほうへ。
糸井
震災のとき、たしか和枝さんは
社長(旦那さん)がいなくなったといって、
探したんですよね? 
社長は工場に戻って、流されたかもしれなくて。
サユミ
そうだ、社長は工場の火が気になって、
車で戻られたんですよね。
和枝
あのとき工場では、炭火で牡蠣を焼いてたんです。
避難するとき、炭はちゃんと外に出したんだけど、
「万一波が来たときにコロンと転がって、その火種が
誰かのお家を焼いたりするといけない」
と気になって、社長が見にいくことになりました。
実際はそんなことが起こらないくらいに、
全部が水をかぶったのにね。
私が「あの火、大丈夫だいかね」と言ったら、
「んだな、もう一回見てこないとわかんね」と、
社長は工場に戻りました。
糸井
全員が逃げている最中に逆行したと聞きました。
和枝
ええ、あんな津波なんて来ないと思ってますから。
津波といっても、
それまでの私たちにとっては
「長靴に水が入るか入らないか」で。
サユミ
そのぐらいと思っていたんですね。
和枝
昭和35年の津波の経験から
「机の上にものをあげれば助かるよ」と
教わっていたんです。
あんなに大変なことになるとは思ってないので、
「あとはこの坂を上がるだけだから、
あんたは先にあがってな」
と言われて私は高台に残り、
社長は車で工場に向かいました。

私はただ「そうすか」と言って坂をのぼった。
するとダーーーッと津波が来るのが見えました。
ものすごい煙といっしょに建物が、
どんどん押し流されるのを見ました。
糸井
社長が車で向かった先が、
そうなっているのが見えた、と‥‥。
和枝
まず脇からバーンと何台も
車が飛ばされてきたそうです。
それで思わずブレーキ踏んだら、
前から波がまくれあがってきたのが見えたと
言ってました。
でも、山に向かう車とは反対車線にいたので、
とにかくバックギアに入れて、
来た道を逃げたそうです。
サユミ
それははじめてお聞きしました。
糸井
でもそのとき、和枝さんは
「流された」と思っていたんでしょう。
和枝
津波が来たと気づいた瞬間は、
とてつもなく大きな天の黒い力のようなものに
ぐぅっと押しつぶされた気持ちになり、
頭が真っ白になりました。
そうしたら、隣のお店の店員さんが
坂を上がってきて、
「ああ和枝さん、よかったですね、
無事だったんですね」
とおっしゃいました。そして、
「社長は下で交通整理してましたよ」と。
サユミ
ああよかった。
でも、逆走から交通整理への切り替えが、
また、すごいですね。
和枝
あるおじいさんが
細い山道に車を入れようとしていたらしいんです。
後続の車もあったので、
社長はその道に立って
「乗り捨てて上がんねば!」
と、とにかく言っていたらしい。
それを見てお隣のお店の方は
交通整理だと思ったんでしょう。
サユミ
いざというときに
そういう行動をなさっていたから、
隣のお店の方も、気づかれたんですね。
和枝
私たち、あのとき経験したことを、
自分の力にしないとと思ってます。
サユミ
うん‥‥。
糸井
これまでいろんな選択肢があったなかで、
そのときどきに足にスパイクつけて、
よくふんばりましたね。
和枝
それこそ糸井さんや「ほぼ日」の方々をはじめ、
ほんっとに大勢の方々が
「大丈夫だ」「一緒にこれをやろう」
「こうやったら明るいほうに行けるよ」
と言ってくださったからです。
サユミ
私は近くにいて、斉吉さんもみなさんも、
それでも明るいほうを見ていらっしゃると、
すごく感じていました。
糸井さんもあのときは
「とにかく明るいほうへ」と、
しきりにおっしゃっていて。
糸井
そう言わないと、
洞窟から出られないという感覚が
ひとつはあったと思います。
「光が射して空気が入ってくるほうへ行く」
これは自然にできるような気がしますが、
じつは、そうじゃないほうに行かせようとする力が
あんがい強いものなんです。

せっかく光が見えているのに、
「それよりいまここにある問題をどうする」だの、
「不平等」だの、
いろいろなことが山積みになって進めないんです。
だからちょっと「声に出して言う」くらいじゃないと、
できなかったんですよ。
チリやタイで、鉱山や洞窟に
人が閉じ込められた事故があったでしょう。
あのときの知恵も、ぼくらは
役に立てないといけません。
和枝
ああ、あれは、
人は希望で生きるんだと思ったニュースでした。
糸井
もろとも死んじゃうかもしれないという状況で、
みなさんよく助かったと思います。
たとえば「このリーダーは信じられない」なんて
言い出したら、殺し合ってもおかしくない。
極限状態で人間は
「最後は何するかわからない、怖いものだよ」
とぼくらも若い頃は教わってきました。
でも、そう決めて信じるのは、
かえって自分を助けなくしてしまうのかも
しれないですね。

(明日につづきます)

2018-11-04-SUN

「ごはん会」のことば

「気仙沼のほぼ日」大家さん
小野寺隆一さんあいさつ。

みなさん、こんばんは。
私は一応、「ほぼ日」さんの
大家ということになってます。
しかし、ここではじめてお会いする方々が
ほとんどなのではないでしょうか。
自分は気仙沼出身で在住なのですが、
船に乗る仕事なので、
町にいる機会が少ないんです。
地元にいながら、
気仙沼を外から見てる感じの人間です。

自分の話になりますけれども、
私は震災後に頸椎を手術しました。
いまは完治してふつうに動ける状態になりましたが、
震災といっしょに町も自分も再出発、
というかたちになりました。
人間も腹をすえて力を出していけば、
自分以上の力が出せる。
ひとりじゃなくてみんなの力を合わせてやれば、
それがもっともっと大きな力になって、
はかり知れない力になると思うようになりました。

「ほぼ日」さんに気仙沼に声をかけていただいたこと、
よかったと思っています。
糸井さんはじめ「ほぼ日」のみなさん、
気仙沼の若いみなさんに、
これからも気仙沼のために、日本のために、
がんばっていただきたいと思います。

2019年11月1日に、
株式会社ほぼ日の気仙沼の事務所である
「気仙沼のほぼ日」はお開きとなります。
お世話になったみなさま、
あと1年ありますが、
まことにありがとうございました。

事務所の場所はなくなりますが、
これからも気仙沼と東京を互いに行き来し、
仕事を続け、交流を深めていきたいと思います。

これまで「ほぼ日」の記事を通じて
気仙沼の人々を知ったり町を訪れてくださったみなさま、
「気仙沼さんま寄席」や「マジカル気仙沼ツアー」など
さまざまなイベントにご参加くださったみなさま、
ありがとうございました。
「気仙沼ニッティング」も「東北ツリーハウス観光協会」も
もちろん活動は続きますし、
「うまけりゃうれるべ市。」で出会った
おいしいものを扱うお店や
「東北の仕事論。」でコンテンツに
ご登場いただいた方々とのおつきあいも、
これからも続きます。

お開きまであと1年ありますが、
もしできれば、そのあいだに
「マジカルツアー」を組みたいと考えています。
どうぞこれからも「ほぼ日」と気仙沼の取り組みに
ご参加いただけるとありがたいです。

2018年11月1日
ほぼ日刊イトイ新聞 一同