家族に歴史あり。
わたしと家族と「北の国から」
ちょっと間が開いてしまいましたが、
みなさんこんにちは。
ついにdarlingは
ほぼすべての「北の国から」を見終わったとか!
(早すぎではないかと思われ…。)
そして相変わらずの「北バナ」がほぼ日内で
繰り広げられていたのですが、そこで一つの提案が。
darling
「『遺言』で終わってないね、あの話は。
よし。最終回を考えよう!!
」
おお!!
なんというファンっぷり。
ほぼ日スタッフもあれこれ意見を出しました。
みんなそれぞれに面白いのですが、
やっぱり血中「北の国から」濃度の高い読者の意見も
聞いてみたいです!
「純のその後」や「快の将来」など、
部分的にでもいいので、『遺言』の先の「北の国から」を
あなたなりに書いてメールで送ってくださいね!
goro@1101.comまでどうぞ。
さて、今回もみなさんの「わたしの北の国から」メールを
紹介いたしましょう。
「北の国から」といえば、「家族」。
そしてテレビドラマですから、
見ている人々も家族と一緒だったことが多いわけで。
おのずと語られた、読者の家族観や家族史を集めてみました。
(掲載したメールのうち、緑色の字のものは、
放送されたばかりの「北の国から2002遺言」の
ストーリーに触れています。
まだ観ていなくて、いまは知りたくない方は、
飛ばして後から読んでください。)
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おつかれさまです。
FRフーズのイズミです。
仕事しろ!と怒られそうですが
こればっかりは、メールさせてくださいっ。
「北の国から」といえば、小学生の頃、
テレビ大嫌いな母が唯一見るのを許してくれた番組でした。
とはいっても、なかばムリヤリ見せられていたような
番組だったので、最初は少し反発もありました。
「全然おもしろくない!漫画の方がいい!」とか。
父のいない家庭でしたので、母は「家族」というものを
番組をとおして子どもたちに伝えようとしていたのかなぁと、
今になって思います。
高校生のころに、新しい「父」が家にやってきて、
家にいづらくなって家出したときも気付くと富良野にいました。
「自転車でどれくらい遠くまで家から逃げられるか」
そんな気持ちでママチャリで走り出したら、
行き着いたところが富良野だった。
富良野についたら、さだまさしさんのテーマが
大音量でスピーカーから流れていて、
なんか急におかしくなってきたんです。
それで家に帰ろうと思いました。
一番の思い出のシーンは、'89帰郷。
富良野に帰った純クンが五郎さんのために
お風呂を沸かすシーン。
人に話すだけで泣けてきます。
(イズミ)
現在海外に住んでいるので、最終回は見られなくて
とても残念です。ただ先月夏休みで一時帰国中に
総集編を子どもと見ました。
子どもにとっては、初めての「北の国から」でしたので、
最初は、私が横でこちょこちょ解説しながら見てたのですが、
途中からは見入ってしまってました。
ドラマの中で、母親の葬儀の日、純と蛍が母の恋人に
新しい靴を買ってもらい、靴屋で古い靴を
捨てられてしまうのですが、父親が無理して買ってくれ、
ずーっとはいていたその靴をやはり取り戻すべく
深夜靴屋の店先のゴミの中をさがしていたところ、
巡査にとがめられるシーンがありました。
純が巡査とのやりとりの中、必死でつたない言葉で説明して、
巡査も一緒にさがしてくれるというところで、
小学6年の息子が、
「あー。ぼくはいつもドラマでこういうシーンを見ると、
子どもは逃げたりしてしまって、
そのたびちゃんと説明すればいいのに・・。
と思っていたけど、
この子はちゃんと説明してたからよかったー。」
とほんとに心底ホッとしたように言って、それを聞いて私は、
とても嬉しく思いました。
「人を信じて、気持ちを話せば伝わる。」というところを、
子どもに見せてくれて、この物語の強さを
改めて思い知らされました。
そして、こういうことを感じられる子どもでよかった。
とも思わせてくれて、幸せでした。
( Y.N.)
富良野の近くに住んでます。
あれから何年経ったのでしょう。
純と、我が家の息子はひとつ違いです。
連続ドラマでやっていた時から、
リアルタイムで見てました。
純の成長が息子そのものでした。
息子が大阪の大学に行ってしまったとき、
純も東京で暮らしてました。
純の過ちを、五郎がかぼちゃを持って謝りにいきましたが、
それは、そのまま私の
「生命」のメッセージでもありました。
「見たかい?」(あくまでも道弁)・・・
「うん。」
何も言わなくても・・今までの五郎と、
純と蛍が大切なものを伝えてくれました。
ダムの底に沈む蛍の木に、別れを告げたり、
UFOが本当に出るかなと思って、ロケ現場に行ってみたり、
スキーに乗りながら、きつねに「ルルルルル」と
言って見たり、思い出は、いっぱいありました。
そして、昨日、3ヶ月の初孫を連れて里帰りした息子は、
「遺言」のテープをバックに入れ、都会に戻っていきました。
兄の近くで、東京の大学にいっている娘も
「遺言」を見ながら泣いた事でしょう。
「見たかい?」・・・・
「うん。」を繰り返していました。
残された我々は、この自然と大切なものを残しましょう。
ドラマ北の国からが始まって数年後
私の両親も離婚しました
私は父ではなく、母と妹と北海道へやってきました。
しばらくは住むところも見つからず、
親戚の家を転々としました。
自分の布団で人目を気にせず、
ぐっすり寝たいと思っていました。
それから母の仕事が決まって、
市で管理してる母子寮に住みました。
8畳一間、トイレは共同、風呂は銭湯へ。
最初はテレビもありませんでした
友達は、みんな自分の部屋をもっていて
それが羨ましくて母に言うと
狭い部屋にカーテンで仕切りをして、
妹と私の小さな部屋を作ってくれました。
そんな生活をしてきたので
北の国からの貧乏な生活は、
私にとって人ごとではありませんでした。
しかも、妹はしっかり者の蛍似。
私は情けない純似で、母からは、いつも叱られていて
ことあるごとに疑われていました。
純を見ると、自分がテレビで
さらしものにされているようで苦痛でした。
でも、ある日見た北の国からで
五郎さんに救われたような気持ちになりました。
どんな時も、こんなにバカみたいに
自分を信じてくれる人がいるだけで
純は幸せになれると感じました。
今まで、純と自分を嫌々ながらも同化して見ていたので
五郎さんのありがたさが、心にすぅと入ってきて、泣きました。
それから私は、蛍と同じ看護学校に行き
戴帽式のシーンで蛍にナースキャップを
付けてあげている先生(本物の先生がドラマに
出てるんですよ)に、大変お世話になり
今は離婚して子供を育てています。
最近、彼ができたんですが、プロポーズされました。
子供も可愛がってくれますが
やはり、蛍のように(彼の本当の子供ではないし、
大丈夫かしら…)という不安はあります。
でも、信じたら信じ抜くしかないんですよね。
これも、五郎さんに教えて貰ったことです。
そして、純が最後に五郎さんのことを
あなたはカッコイイと認めたことが嬉しかった。
私の母は、今だに私を信じてはくれません。
辛かったらいつでも帰ってこいとは言ってくれません。
それが不安で、母の愛情を試すようなことばかり
していたのですが。
私も、自分の北の国からを終わらせるには
母の愛情の示し方を認めて
ありがとうと言ってみたいのです。
そう思った最終回でした。
私にとっての北の国からは、
他の人が書いていらっしゃるような
自分の幸せを確認するためや
大自然の中だからこそ浮き立つドラマでもなく
自分自身とリンクする、人前にさらしたくない物語でした。
(るるる)
ここに皆さんが寄せられてる話、
思い浮かべるだけで涙が出てきます。
一番泣いたのは五郎さんが持ってきたかぼちゃです。
うちも母は早くに亡くなってしまい、
父と私と弟の3人でしたから。
父子家庭ってどうしても暗くなりがちで、
いつも自分たちと重ね合わせて見てました。
この場面では爆泣でした。
十月からカリフォルニアのフジテレビの放送枠で
最初のシリーズを放映する事になり
私の心は爆発しそうだったわけで…
純のつぶやきの真似をしてみたんだ。
(かずりん)
「北の国から」は昔から家族揃って見ていました。
「遺言」の予告CMが流れ出した頃、自宅のベット
闘病生活をしていました。
父には見せちゃいけない、私も見るのが辛いって
思いました。
結局私も父も別の部屋で見ていたんです。
私は泣きながら。
父は五郎さんの胃カメラのシーンで大笑い
していたそうです。
体調が急変し、後編は見ることが出来ず、
遺言を残すこともなく逝ってしまいましたが、
心の中で生きています。
最後になりましたが、私の好きなシーンは
正吉と蛍の結婚式で、草太兄ちゃんのテープが
流れる所です。
このストーリーを誰かに話すだけで、泣けます。
(きょうこ)
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貴重なご家族との思い出をたくさん、
ありがとうございました。
いろんな人が、いろんなところで、
いろんな思いを抱えながら、この家族を
見守っていたのですね…。
では、また次回。
メールは、表題に「わたしの北の国から」と書いて
goro@1101.comに送ってくださいね!!
(↑五郎でアドレスも作ってしまいました。)
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