小林 |
演出家というのは、うさんくさい人種ですよ。
ミニ麻原彰光みたいなものです。
ほとんどみんなに、その要素があります。
「いいね!それ!!」
とか恥ずかしげもなくやるひと、
いるじゃないですか。女優を泣かせたりして。
そうやって人心を操作していく、
ミニ政治家みたいなところがあって、
多少はうさんくさい世界ではあるんだけど・・・。
岩松さんは、そこのセンスに行きたくないひとで、
稽古場で「その手」を絶対に使わないんですよ。
説明も、一切しない。
この登場人物の心理状態は?と尋ねても、
「いや知りません、ぼくは
その登場人物じゃないから、わかりません」
と、突き放しちゃうんです。
「いいかげんにしろよお前」
と思うまで、役者に
何かをくりかえしてやらせることもあるけど、
それは、ミニ政治家の要素を出さないために、
しみこませるようにやっているんだと思う。
言葉の持っている政治性みたいなものを消して、
ちゃんとひとを見ている。 |
糸井 |
ぼくは樋口さんの稽古を見たことはないけど、
あれだけ疲れて帰ってくるなら、
岩松さんの稽古は、すごいんだろうなあと思う。 |
小林 |
ぼくなんか、稽古場で彼に
ただ言われたまんまで帰りたくないから、
そのあとで酒を飲みに行くんです。
役者って、怒られたり駄目出しされたほうが
最終的にはいけるとはぼくは思っていますけど、
そのままだと、
「俺は馬鹿なんじゃないか?」
という感じになってしまうから。 |
糸井 |
じゃあ、じかに帰ったらへろへろになるんだ! |
小林 |
当たり前ですよ。
今でも、ものすごく抱えてますよ。
岩松さんの言うことって、
ここ(首の後ろを指す)に来るんです。
でも、許してやっているのは、その誠実さだよね。
さっきの、うさんくさい演出家的な手口を、
愚直なまでに使おうとしないから、
その一点だけでも、彼はすごいと思うんです。
映画の場合は、
いいものをひとつ撮ってしまえば、
それで終わりなのですが、
芝居はそうじゃなくて、いつもある。
だから、普段やっておくのは、
「最低限にできることの底上げ」になるんです。
最低の状態になっても、
そこでも何らかのものが流れている、
と示すしか、芝居を見せることはできない。
岩松さんは、そうやって考えているのでしょう。
ぼくはいつも、
岩松さんからは、もらってるんですよね。
主観的に了解したものを演じたいんだけど、
彼に言われたことを、
パッと俺の肉体を通してやってみると、
ニュアンスが違って来る時もあって。
舞台に一人が登場するだけでは、
岩松さんの芝居は成り立たないと思う。
一人いるだけではなくてもう一人加わると、
引力ができるという芝居だと思います。 |
糸井 |
関係性だよね。 |
小林 |
別れたばかりの二人と、
そのうちの一人とつきあいはじめた一人がいたら、
その三人の間には、緊張感が出てくる。
ひとって、自分で動いているようで、
まわりに動かされますから。
例えば、嫌な先輩が来たら、
嫌だということを見えないように表現する。
それも、既にもう芝居ですよね。
その嫌な先輩に動かされて生まれた芝居です。
岩松さんは、
圧力受けたり見られたりしていることに対して
ひとがどう逃げているか、演技をしているか、
どう反射をしているか・・・
そういう喜劇性を見ていますよね。 |
糸井 |
岩松さんの舞台は、
関係だけでできている緊張が、すごい。
「このまま帰すなよなー、
でもこのままでもいいくらいだ」
って縛られていくんだよなあ。
なかなか発散しない、辛い芝居なんですよね。 |
小林 |
役者を発散させようとは、
岩松さんは思っていないんじゃないかな。
「それでも依然として問題は残っていく」
というのが彼の考えかたです。
絵空事を表現したいわけじゃないですから。
岩松さんは、オウム信者としゃべった時に
「簡単に解決するんじゃねえよ」と言ったんです。
紙を持ってきたら解決できるようなことはなくて、
俺たちはそこで七転八倒しているんだ・・・
そういう感覚が、彼の演劇のなかに、残っている。
だから、見終わったあとにも問題が残ることに、
岩松さんは責任を持たない。
「答えはない、ただそういうことなんじゃないの」
というような感じですよね。 |
糸井 |
役者側としては、
岩松さんの芝居をやるのに、覚悟が要ると思う。 |
小林 |
でも、宗教に入ったのではない大変さだから。
夕食を外で食べたいとなったら、
そこは泳がせてくれるんですよ。
役者から見たらたいへんなんですけど、
やっぱり他には、そんな場所がないんですよ。
そこが、愚直な岩松さんの魅力だと思う。
役者にも、岩松さんの世界に
はまるひとと、そうではないひとがいて、
「たいへん」というのが度を超えちゃうと、
もう嫌、二度と嫌、みたいになったりしますけど。
(つづく) |