Drama
「小林薫『俺はシブイか?!』対談。

【その7・競馬や安心など】

(※生中継ライブのごく一部をお送りしています)


小林 ぼくなんかにも
「いいものが欲しい」というのがあるから、
ちょっと油断すると「いい車」になっちゃうの。
でも、ほんとにかっこいいのは
掘っ立て小屋に住むとかいうことですよね。
宮沢賢治か稲垣足穂かみたいになるのには
一朝一夕にはいかないから、
そうしていく癖をつけないと。

今は、戦争がなくて、
死んでしまうかもしれない状況がないから、
若い人たちが、変なものを信じてるんだよね。
永遠みたいなもの。
糸井 「安心」だよね。
小林 そんなものは、ないわけで。
糸井 死は、隣にある。
俺たちもほんとは隣あわせで
死んでしまったかもというのがあるけど、
「今日も明日もこつこつと」
って、ひとは言うんだよね。
小林 確実なものが世の中にないことは、
競馬をやっていれば、いつでもわかります。
予想していると、
「俺って何て常識人なんだ」
と思うのね。

穴とか中穴を狙っていくのだけど、
その予想も、結局は本命の裏返しなんです。
本命という軸があるから、
そういう行動に出るだけで。
だから、常識で選んでいるだけになる。
最後にはデータに頼る、というふうになったら、
今の株式市況みたいになるでしょ?
「これ買っておけば安全」ということですから。

そこに行きたくない気持ちで、という、
ぼくの場合は、そういう買い方をしています。
「なぜこういう発想しかできないの?」
「何で現実のなかで考えられないの?」
って思いながら、競馬をしています。
糸井 アイデアには勝ち負けはないけど、
勝ち負けの勝負には、勝ちたくなってしまう。
勝ちたい気持ちがあると、
保守的になるような気がするんですよ。
・・・つまり、遊びって、
しないのが一番遊んだことになる、
というようなことがあるじゃない?
小林 哲学的ですね。
糸井 俺、落語を好きでしょ。
遊郭では「下の下」の男は居残る、
「下」は泊まる、「中」はそのまま帰る、
「上」は通り過ぎるだけという風に
中の女からは見られているという仕組みで。
「通りがかって見る」というだけのやつは、
ほんとうはお金を落とさないにも関わらず。

でも、お客さんは
「どうやってものにできるか」
とかいう、勝ち負けだとかの
別のルールを自分のほうで持ちこんでしまうから、
「花魁にほれられちゃってさ」
とかいうドラマができるんですけど・・・。
競馬も、勝ちたいから参加しているんであって、
その時点で保守的になるんじゃないかなあ。
小林 ぼくは、電車で赤鉛筆を耳に差して
競馬の予想をしているひとたちを見て、
「このひとたちのほうが、
 普通のひとよりも信用できるんじゃないかな」
と感じたんです。だから、憧れていました。
切実なお金を握りしめて、
不確かなものに向けて賭けようとしている姿に、
「信じられるんじゃないか。
 そのひとたちの世界に触れたいな」と思った。

ぼくの場合、切実度で言うと、
自分のなかでバランスを取るところがあるので、
近づくのには限界があると思いますけど・・・。
それでも、不確かなものに向かうひとたちの、
表現されていかない何かの中に、
役者としては入りたいという気持ちがあります。
糸井 ぼくの場合は、「広さ」が欲しくて
そういうひとに近づいていましたね。
小林 競馬の世界に入ってみると、
下らないひとはいなくなりましたよね。
糸井 うん、それはすごくわかる。
あらゆるところに、
俺が今まで見ていなかったすごいひとたちが、
山ほどいますよね。

そういう意味での幅広さが、
ないことにされちゃうと、嫌ですよね。
例えば、没になるからこういう歌詞は書けない、
そういう風にやり続けていると、
そのうちに、つるんとした服のなかにいる
ひとたちのように、なっちゃうと思うんだよ。
小林 つるんとした服になって
おんなじようになっていく理由は、
なんだと思いますか?
糸井 安心信仰だと思う。
「そのほうが食える」っていうやつ。
小林 そうだね。
例えば、今どきの高校生を見ていると、
疲弊していると思う。
糸井 でも、見ていないだけで、
ほんとはその中に、
おもしろいやつが、いるんだよ。
小林 それはどんな世の中にもいるんだけど。
糸井 ぼくは「いる子のほう」だけ見てる。
小林 でも、100メートルで10秒切る人は、
20秒のやつばっかりいるなかには、
出てこないんじゃないかなあ。

(つづく)

2000-05-21-SUN

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