Drama
「小林薫『俺はシブイか?!』対談。

『悪戯』パンフレットに掲載するために
ぼくが書いた原稿を、いちはやく横流しして、
ここに掲載しておきますね。


「恥ずかしい人々」の生み出す時間。

糸井重里

笑っちゃもうしわけないのだが、

今回の芝居のキャスティングを見て、
ちょっと笑ってしまった。
小林薫、樋口可南子、岩松了という
三人のメインキャストは、
私にとっては因縁浅からぬ人々であるのだが、
そのこととは別に、ある共通の
性格を持っているという分類もできる方々なのである。

もったいつけずに言ってしまえば、
彼らは日本でも有数の恥ずかしがりなのである。
そして、それでいながら、恥ずかしさから
超音速で離陸しようとする
冒険的な性格を持った人々なのだ。
だいたいが、三人とも恥ずかしがりのくせに、
公衆の面前で、好きだの嫌いだの
憎いだの愛しいだのというような意味の台詞を
陳列しては生活費を稼ぎ出している役者なのだ。
ひどい矛盾だと、思うことも多々ある。

樋口の恥ずかしがりを、私はよく知っている。
彼女のその性格を見抜ける程度には
私も恥ずかしがりであるし、それに、
会っている時間も長いものだから、
女優としての樋口が恥ずかしさという衣装を
大胆に脱ぎ捨てて、裸という衣装に着替えていることも、
理解しているつもりである。
身も蓋もない言い方をしてしまえば、
樋口可南子の恥ずかしがっていない時間というのは、
すべて女優の時間なのだとさえ思っている。

その恥ずかしがりの樋口を起点にして、
彼女とは「役者としての幼なじみ」とさえ言える
小林薫の恥ずかしがりやさんぶりを計測することは、
たやすい。

樋口の同居人であり、
小林薫の旧い知り合いである私が、
ある時、彼に「じゃ、うちに電話してよ」
と言ったと思いねぇ。
その時の小林薫のことばは、
なかなか大した恥ずかしがりぶりであった。

「だって、イトイちゃんとこ電話したら、
女優さんがでることがあるでしょ」だって。
何を言っておるのか、何を考えておるのか。
おいおい、そんなこと言ったら、おまえは男優さんだぞ、
人前で小便しても仕事だと言い張れる職業の人間なんだぞ、
と言ってもよかったけれど、
そこは私もほんとは
恥ずかしがりやさん組合のメンバーである。
「なに言ってんだか」と笑って
話をおしまいにしてしまった。
私自身だって、友人の妻が女優さんだった場合は、
その人が電話に出たら困るような気がする。
要するに、私も、困らないモードに
自分の精神の在りようを切り替えるから
平気なだけなのである。
よくよく考えると、ヒグチさんが職業用の化粧して、
そのへんをうろうろしていると、
気圧されて迷惑な感じになるものな。

そして、樋口、小林に信頼され、
「わたしたちを、どうにでもしてください」と
身を投げ出させる立場にいる岩松了は、
どうなのかというと、
これが恥ずかしがりでないわけがない。
岩松了の脚本と演出は、
台詞の意味だけをなぞっていくと、
まったく別の物語が生まれてしまいそうなくらい
「うそばっかし」のスタイルを持ち味にしている。
登場人物たちは、自分の裸の考えが
相手に悟られているのではないかと、
たえず不安に思っているから、
その悟られている程度を確かめるように、
思いとは別のことばを投げかけ、
相手の受け止め方を観察している。
その別のことばに、相手がどう反応するかによって、
自分と相手の関係をその都度確認しては、
また次のことばを探し出していく。
心の裸に、絶えず新しい衣装を
着せ替え続けていく芝居がほとんどだ。
つまり、彼の世界の住人たちは、全員が、
なにか見られてはいけないものを隠し続けているのだ。
これが、恥ずかしいということなのだと、私は考えている。

なにが、どうして、この三人のそれぞれの
恥ずかしいという心を育んでしまったのか、
私は知りはしない。
しかし、恥ずかしい人々が、恥ずかしさを脱ぎ捨てたり、
別の恥ずかしさに着替えたりするところは、
観客である私たちにとって、
なかなかに大きなお楽しみなのである。

恥ずかしさを、恥ずかしさということばで語る以外に、
彼ら三人の恥ずかしさについて
表現できない私の恥ずかしさは、
誰に理解していただけばよいのであろうか。    

2000-04-26-WED

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