KINDER
ガキの頃は、バカだったなぁ。

(7月20日)

私が小学5年生くらいの頃、2コ下の弟に
 「お母さんとお父さんは
  ホントは宇宙人って知ってた?」と言われた。
 「オレも最近やっと正体をつかんだけど、
  気付いてないふりしてる。
  じゃないと食べられちゃうからな・・。

  姉ちゃんも気をつけろよ」と。
 夕方の薄暗い台所で、晩御飯を作ってる
 母親の後ろ姿が凄く恐かった・・。

 そんな彼が小学校高学年の時は
 部屋の出入りや玄関の出入りでは片膝を叩いてから・・
 というきまりを作っていた。
 入りは右膝、出は左・・という感じで。
 叩き忘れて部屋を出てしまったら、
 再度叩いて入り直し、また叩いてから退室していた。
 「これでヨシ!」とかって。

 ・・弟と同じ血液型の今3才のうちの子は、
 この先どんなステキな考え方を経て、
 いわゆる普通の大人になってしまうのか、
 とても楽しみで少し寂しい気持ちです。
 (Buru)

うちにも、今「練習真っ只中」の人がいます。
 3ヶ月になった息子なのですが、
 首がしっかりすわってもいないのに、
 とにかく寝返りが打ちたくてしょうがないらしいのです。
 体をよじって、えぶえぶと泣きながら練習しています。
 ときどき反則して、わたしが
 お尻を支えてひっくり返してやるのですが、
 それは彼の目指すところではないらしく、
 喜んでくれません。
 そしてまた一からやり始めます。
 おっぱいを飲んで、ねんねするだけかと思っていた赤子に、
 いつのまにか泣きながら打ち込むなにかができたと知って、
 ママはちょっと感動しました。
 (マンゴスティン)

私の母親は、薬剤師です。
 病院の薬局で働く母の姿を見るのが好きで、
 よく母の仕事場で遊んでいた私は、
 薬を包む機械を扱う手順なども
 完璧にマスターしていました。
 ある日、いつものように薬局に遊びに行った時、
 暇だったので床に落ちている薬の粒を拾い集め、
 それを包む機械に入れて分包し、
 出来上がった薬の束を大満足でエレベーターに入れ、
 伝票をつけて別の階へ送りました。
 すべて母のマネでした。
 数分後、わけの分からない薬を送りつけられた
 別の階の看護婦さんに、母は
 「子供のいたずら」だと答えていましたが、
 大事に至らなくてよかった。
 あのとき、笑っていた母は大物だと思います。
 (しのぶ)

小学生の頃。
 兄は、星新一さんの「マイ国家」に感化されたのか、
 自分の部屋を「マイ国家」と名付け、
 独自の法律を制定していました。
 そのころ、二段ベットはマイ国家の中。
 私は寝るためにマイ国家へ入国しなくてはなりません。
 そして入国料を払うために、私はマイ国家で働き、
 マイ国家マネーを稼がなくてはなりませんでした。
 マイ国家の法律により、
 私の職業はボクサーとされていました。

 (女の子なのに!!)
 マウスピースの代りに、ティッシュを口につめこみ、
 試合前には国歌として自分の好きな曲を流しました。
 私は、腕をぶんぶんと降りまわし、
 泣きながら兄に戦いを挑みました。
 「お兄ちゃーん、もう嫌だよー」
 と言っても、聞き入れてもらえず
 10回戦、KOなしの判定のみによる勝敗でした。
 しかも、判定員は兄(ボクサー兼任)。
 もちろん、毎回負けです。
 でも、ファイティングマネーがもらえるので、
 1週間はそれで入国し、ベットで眠ることができました。
 ちなみに、お金がなくて、稼ぐのも嫌なときは、
 マイ銀行から借金をしました。
 私は借金を返すために、試合を重ねていたのです。
 今でもボクシングの試合を見ると
 燃えるのは、そのせいか??
 (ふち)

保育園のとき、
 月に一度「お誕生会」というのがあって、
 その日が近づくたび先生から
 「米一合持ってきてください」と言われました。
 (確かお誕生会の日のお昼はカレーとか
  ちらし寿司だったと思うので、
  普段より多くのご飯が必要だったと思います)
 私はいつも「米・苺」と勘違いし、母に伝えてました。
 しかし、ナイロン袋に入った米しか渡さない母に、
 「なぜこの中に苺が入っていないのか」
 毎月腹立たしく思ってました。
 そんな言葉の勘違いをしていた私の
 現在の仕事は、司会業です。
 (なまめんぼう)

小学生から高校まで書道を習ってました。
 よく書けたと思ったら先生に見ていただきOKなら完版。
 完版になるまで帰れません。
 2〜3時間、これと思う字が書けず
 日が暮れてくると「上手く書かないと」なんて
 思ってますます書けない。
 お腹もすいてよくわけわからなくなった頃
 「えいやっ」と書いたのが完版になって
 帰ることがよくありました。
 火事場のバカぢから、とその当時は思ったりしましたが
 今思うと、たくさん素振りをした後の無心のひとふり?
 まぁ、美化してます。
 (あざらし)

一人っ子の私は、しょっちゅう母に
 妹か弟が欲しいとせがんでいました。
 でもそのたびに
 『「山形屋」に先週まで売っていたけど、
  あら!もう今週は他のもの売ってるね〜』
 となだめられていました。
 私の頭の中は、子供の足首を麻ひもでしばって、
 逆さ釣りにしてよりどりみどり選べる…

 バナナをそうやって売っているので
 そうだと思ったんでしょうネ。
 (今度の陶器市が終わったら、赤ちゃん売るかな?)
 なんて考えていた35年前の自分、ホント!バカ!
 因みに私は沖縄県民です。
 (かっちゃん)

ぼくも小学6年生のとき、
 1年中半袖だったことがあります。
 雨の日も雪の日も、とにかく半袖・半パンでした。
 どこまでもつか友達と競い合っていて、
 2月頃になると、手袋にニット帽、それでも意地で
 半袖半パンという格好で登校していました。

 かなり奇天烈な格好だったなと思います。
 (ごんべ)

4才ぐらいのとき、家が
 父の勤めていた会社の敷地内にありました。
 家の窓から駐車場が見えるのですが、
 退勤時刻になると私と弟は窓に張り付き、
 ある人が現れるのを毎日待っていました。
 その人は事務員さんの御主人で、
 毎日車でお迎えにきていました。
 御主人はおじいちゃんで痩せ型、
 黒いサングラスといった風貌。
 そして駐車場にその御主人の車が見えると、
 「あっ!きたよ!」と弟と駐車場まで全力疾走。
 そして車まで辿り着くと、その勢いで
 御主人が車から降りないうちに、
 「ホーネホネロック〜♪ホーネホネロック〜♪」
 と歌いながら2人で御主人の車の周りをふにゃふにゃと
 踊り続ける...、という、

 今思うと苛めめいたことを毎日続けていました。
 毎回御主人は車の中から私と弟にハッカの飴を
 差し出してくれました。
 そんな時御主人はどんな顔をしていたのか
 全く思い出せませんが、もしかしたら
 「これやるから去ってくれよ」
 ということだったのでしょうか。
 しかも2人とも子供なのでハッカ飴が食べれず、
 あまり嬉しくないのに毎日もらい続けていました。
 救いようがないバカ兄弟でした。
 (くり)

中学の修学旅行の時、みんなが寝静まってる中、
 薄暗がりを歩いたら、
 一番の親友の腹を思いっきり踏んでしまいました。
 暗がりのため、加減なしで。
 踏まれた親友は当然、カンカンになって
 怒りまくってましたが、私は踏んだ時の
 妙に柔らかい感触が忘れられず、

 いつまでもフトンの中でクスクス笑ってました。
 人の腹を加減なしで踏んだのは、
 後にも先にもあの時だけです。
 (ミドン)

小学生の時、通学路の途中に、
 古い閉まりかけの肉屋があった。友達が
 「あそこの店の前を通る時に、息を止めないと呪われるよ」
 と言って、私達はそれを本気で信じ、
 いつもその店の前を息を止めながらダッシュで通った。
 後になってわかった事だが、
 それは友達が勝手につくったルールだったらしい。
 それがわかった今でも、たまにその店の前を
 通る時に、息をとめてしまうくせがついている。

 (まちゃまちゃ)

小学校の時,「解剖に使う魚を持ってこーい」と先生.
 そのころ優等生で通っていた僕だけが魚を持っていった.
 得意げにサンマ(はらわたなし)を.
 (yu)

台フキンをチュッチュッチュ…を読んで、
 「え〜!、きたない…」っと思ったのですが、
 それを見た「ひらりん」さんが、
 風呂の水を桶でゴクゴク…を読んでいたら、
 「あっ、自分も風呂で、
  濡れタオルをチュッチュ吸っていた…」

 と、クリアー思い出しました。
 忘れていたのに、思い出してしまいました…。複雑。
 (りんころ)

私が小学生の時、
 近所で花火遊びがものすごくブームでした。
 普通に鑑賞するのではなく、
 ロケット花火で打ち合いをするんです。
 今思うとすごく危険なのですが、
 花火遊びはどんどんエスカレートしていき、
 畑のネギの根元に
 爆竹をいっぱい仕掛け次々に点火すると、
 「ポンッ、ポンッ、ポンッ」といい音をして
 ネギ坊主が空に舞い上がるのを見て、
 友達とゲラゲラ笑っていました。
 そのあと鎌を持った
 おじさんに追いかけ廻されました。

 あの時のおじさん本当にごめんなさい。
 ここで懺悔いたします。
 良い子の皆は絶対にマネしないでくださいね。
 (beyon)

ピカピカの小学一年生。
 初めての授業参観は国語でした。
 「あ」の付く言葉、
 「い」の付く言葉、といった要領で
 単語を挙げ、ノートに書き写すという授業でした。
 「きゃ」にさしかかったとき、生徒から
 「きゃんでぃー」「きゃらめる」
 の2つが挙げられました。
 先生は「他にないかなー?」と言いましたが
 誰も手を挙げません。
 自信満々で手を挙げた私の答えは「きゃばれー」
 後ろのお母様方は大爆笑。先生も笑いをこらえつつ、
 「そ、そうね、確かに『きゃ』がつくわね」と、
 きれいな字で黒板に「きゃばれー」。
 当然みんなのノートにも「きゃらめる」などに続き
 「きゃばれー」の文字が。
 なんでまたそんな単語を・・・
 しかも授業参観なのに・・・。
 でも、意味が分からないので
 ぜーんぜん恥ずかしくなかった、
 という汚れのない頃の思い出。
 (花子)

幼稚園の頃、
 「人間は、一生のうちにしゃべる量が決まっていて、
  たくさんしゃべる人は早く死ぬ」

 と、思い込んでおりました。
 漫才コンビの出ているCMを見ては
 「ああ、あっち(たぶんボケの方)の人、
  早く死んじゃう!
  早く死ぬのに、いじめられててかわいそう!」
 などと心を痛めていました。
 その不公平さに周りの大人が無関心なのにも、
 憤りと疑問を感じていました。
 しかもそのCMを一日に何度も見るので、
 そのたびに「あの人はまた死に近づいた・・・」と
 気の毒に思い、なんとか死期を延ばせないかと、
 代わりにテレビの前でその人がしゃべる間、
 息を止めたりしてました。
 (もりも)


私は小さい頃から
 ”大きくなったらすごい美人になる”と信じていました。
 亡くなった祖母が、いつも
 “XXちゃんは楊貴妃に似てるから将来は美人になるね”
 と言っていたからです。
 ちなみに私の中の楊貴妃のイメージは、
 目鼻たちがはっきりした
 クレオパトラみたいなイメージでした。
 だから、誰から何も言われなくても、
 他の子が可愛いともてていても、
 “いいの、私は将来美人になるから”
 って悠長に構えてました。
 楊貴妃が、のっぺり顔の
 目の細い女性だという事を知ったのは、
 中学生の時の歴史の教科書でした。
 …どう考えても、私の平安顔から
 クレオパトラ並の顔にはならないって分かるはずなのに、
 何故そう信じていたんだろう。
 
   
(ミニコメント)

なんと言っても
「お母さんとお父さんは、
 宇宙人だって知ってた?
 オレも最近やっと正体をつかんだけど、
 気付いてないふりしてる。
 じゃないと食べられちゃうからな・・。
 姉ちゃんも気をつけろよ」
これが最高ですよ。
どう確信を得たのかはわかんないけど、
おそろしく真剣な顔で
このセリフを言ったことだけは、想像できます。
「靴のはきなおし」とか、子どもって、
潔癖症でもあるんですよねぇ。
「ねがえりを練習するわがこ」も、
とんでもなく、かわいらしかったです。

あなたや、あなたのまわりの「ガキばなし」は
postman@1101.com
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どんどん、おおくりくださいませー!!!
       

あなたや、あなたのまわりのガキばなしを、
件名に「ガキ」と書いて、
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2003-07-20-SUN
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