(7月20日)
●私が小学5年生くらいの頃、2コ下の弟に
「お母さんとお父さんは
ホントは宇宙人って知ってた?」と言われた。
「オレも最近やっと正体をつかんだけど、
気付いてないふりしてる。
じゃないと食べられちゃうからな・・。
姉ちゃんも気をつけろよ」と。
夕方の薄暗い台所で、晩御飯を作ってる
母親の後ろ姿が凄く恐かった・・。
そんな彼が小学校高学年の時は
部屋の出入りや玄関の出入りでは片膝を叩いてから・・
というきまりを作っていた。
入りは右膝、出は左・・という感じで。
叩き忘れて部屋を出てしまったら、
再度叩いて入り直し、また叩いてから退室していた。
「これでヨシ!」とかって。
・・弟と同じ血液型の今3才のうちの子は、
この先どんなステキな考え方を経て、
いわゆる普通の大人になってしまうのか、
とても楽しみで少し寂しい気持ちです。
(Buru)
●うちにも、今「練習真っ只中」の人がいます。
3ヶ月になった息子なのですが、
首がしっかりすわってもいないのに、
とにかく寝返りが打ちたくてしょうがないらしいのです。
体をよじって、えぶえぶと泣きながら練習しています。
ときどき反則して、わたしが
お尻を支えてひっくり返してやるのですが、
それは彼の目指すところではないらしく、
喜んでくれません。
そしてまた一からやり始めます。
おっぱいを飲んで、ねんねするだけかと思っていた赤子に、
いつのまにか泣きながら打ち込むなにかができたと知って、
ママはちょっと感動しました。
(マンゴスティン)
●私の母親は、薬剤師です。
病院の薬局で働く母の姿を見るのが好きで、
よく母の仕事場で遊んでいた私は、
薬を包む機械を扱う手順なども
完璧にマスターしていました。
ある日、いつものように薬局に遊びに行った時、
暇だったので床に落ちている薬の粒を拾い集め、
それを包む機械に入れて分包し、
出来上がった薬の束を大満足でエレベーターに入れ、
伝票をつけて別の階へ送りました。
すべて母のマネでした。
数分後、わけの分からない薬を送りつけられた
別の階の看護婦さんに、母は
「子供のいたずら」だと答えていましたが、
大事に至らなくてよかった。
あのとき、笑っていた母は大物だと思います。
(しのぶ)
●小学生の頃。
兄は、星新一さんの「マイ国家」に感化されたのか、
自分の部屋を「マイ国家」と名付け、
独自の法律を制定していました。
そのころ、二段ベットはマイ国家の中。
私は寝るためにマイ国家へ入国しなくてはなりません。
そして入国料を払うために、私はマイ国家で働き、
マイ国家マネーを稼がなくてはなりませんでした。
マイ国家の法律により、
私の職業はボクサーとされていました。
(女の子なのに!!)
マウスピースの代りに、ティッシュを口につめこみ、
試合前には国歌として自分の好きな曲を流しました。
私は、腕をぶんぶんと降りまわし、
泣きながら兄に戦いを挑みました。
「お兄ちゃーん、もう嫌だよー」
と言っても、聞き入れてもらえず
10回戦、KOなしの判定のみによる勝敗でした。
しかも、判定員は兄(ボクサー兼任)。
もちろん、毎回負けです。
でも、ファイティングマネーがもらえるので、
1週間はそれで入国し、ベットで眠ることができました。
ちなみに、お金がなくて、稼ぐのも嫌なときは、
マイ銀行から借金をしました。
私は借金を返すために、試合を重ねていたのです。
今でもボクシングの試合を見ると
燃えるのは、そのせいか??
(ふち)
●保育園のとき、
月に一度「お誕生会」というのがあって、
その日が近づくたび先生から
「米一合持ってきてください」と言われました。
(確かお誕生会の日のお昼はカレーとか
ちらし寿司だったと思うので、
普段より多くのご飯が必要だったと思います)
私はいつも「米・苺」と勘違いし、母に伝えてました。
しかし、ナイロン袋に入った米しか渡さない母に、
「なぜこの中に苺が入っていないのか」
毎月腹立たしく思ってました。
そんな言葉の勘違いをしていた私の
現在の仕事は、司会業です。
(なまめんぼう)
●小学生から高校まで書道を習ってました。
よく書けたと思ったら先生に見ていただきOKなら完版。
完版になるまで帰れません。
2〜3時間、これと思う字が書けず
日が暮れてくると「上手く書かないと」なんて
思ってますます書けない。
お腹もすいてよくわけわからなくなった頃
「えいやっ」と書いたのが完版になって
帰ることがよくありました。
火事場のバカぢから、とその当時は思ったりしましたが
今思うと、たくさん素振りをした後の無心のひとふり?
まぁ、美化してます。
(あざらし)
●一人っ子の私は、しょっちゅう母に
妹か弟が欲しいとせがんでいました。
でもそのたびに
『「山形屋」に先週まで売っていたけど、
あら!もう今週は他のもの売ってるね〜』
となだめられていました。
私の頭の中は、子供の足首を麻ひもでしばって、
逆さ釣りにしてよりどりみどり選べる…
バナナをそうやって売っているので
そうだと思ったんでしょうネ。
(今度の陶器市が終わったら、赤ちゃん売るかな?)
なんて考えていた35年前の自分、ホント!バカ!
因みに私は沖縄県民です。
(かっちゃん)
●ぼくも小学6年生のとき、
1年中半袖だったことがあります。
雨の日も雪の日も、とにかく半袖・半パンでした。
どこまでもつか友達と競い合っていて、
2月頃になると、手袋にニット帽、それでも意地で
半袖半パンという格好で登校していました。
かなり奇天烈な格好だったなと思います。
(ごんべ)
●4才ぐらいのとき、家が
父の勤めていた会社の敷地内にありました。
家の窓から駐車場が見えるのですが、
退勤時刻になると私と弟は窓に張り付き、
ある人が現れるのを毎日待っていました。
その人は事務員さんの御主人で、
毎日車でお迎えにきていました。
御主人はおじいちゃんで痩せ型、
黒いサングラスといった風貌。
そして駐車場にその御主人の車が見えると、
「あっ!きたよ!」と弟と駐車場まで全力疾走。
そして車まで辿り着くと、その勢いで
御主人が車から降りないうちに、
「ホーネホネロック〜♪ホーネホネロック〜♪」
と歌いながら2人で御主人の車の周りをふにゃふにゃと
踊り続ける...、という、
今思うと苛めめいたことを毎日続けていました。
毎回御主人は車の中から私と弟にハッカの飴を
差し出してくれました。
そんな時御主人はどんな顔をしていたのか
全く思い出せませんが、もしかしたら
「これやるから去ってくれよ」
ということだったのでしょうか。
しかも2人とも子供なのでハッカ飴が食べれず、
あまり嬉しくないのに毎日もらい続けていました。
救いようがないバカ兄弟でした。
(くり)
●中学の修学旅行の時、みんなが寝静まってる中、
薄暗がりを歩いたら、
一番の親友の腹を思いっきり踏んでしまいました。
暗がりのため、加減なしで。
踏まれた親友は当然、カンカンになって
怒りまくってましたが、私は踏んだ時の
妙に柔らかい感触が忘れられず、
いつまでもフトンの中でクスクス笑ってました。
人の腹を加減なしで踏んだのは、
後にも先にもあの時だけです。
(ミドン)
●小学生の時、通学路の途中に、
古い閉まりかけの肉屋があった。友達が
「あそこの店の前を通る時に、息を止めないと呪われるよ」
と言って、私達はそれを本気で信じ、
いつもその店の前を息を止めながらダッシュで通った。
後になってわかった事だが、
それは友達が勝手につくったルールだったらしい。
それがわかった今でも、たまにその店の前を
通る時に、息をとめてしまうくせがついている。
(まちゃまちゃ)
●小学校の時,「解剖に使う魚を持ってこーい」と先生.
そのころ優等生で通っていた僕だけが魚を持っていった.
得意げにサンマ(はらわたなし)を.
(yu)
●台フキンをチュッチュッチュ…を読んで、
「え〜!、きたない…」っと思ったのですが、
それを見た「ひらりん」さんが、
風呂の水を桶でゴクゴク…を読んでいたら、
「あっ、自分も風呂で、
濡れタオルをチュッチュ吸っていた…」
と、クリアー思い出しました。
忘れていたのに、思い出してしまいました…。複雑。
(りんころ)
●私が小学生の時、
近所で花火遊びがものすごくブームでした。
普通に鑑賞するのではなく、
ロケット花火で打ち合いをするんです。
今思うとすごく危険なのですが、
花火遊びはどんどんエスカレートしていき、
畑のネギの根元に
爆竹をいっぱい仕掛け次々に点火すると、
「ポンッ、ポンッ、ポンッ」といい音をして
ネギ坊主が空に舞い上がるのを見て、
友達とゲラゲラ笑っていました。
そのあと鎌を持った
おじさんに追いかけ廻されました。
あの時のおじさん本当にごめんなさい。
ここで懺悔いたします。
良い子の皆は絶対にマネしないでくださいね。
(beyon)
●ピカピカの小学一年生。
初めての授業参観は国語でした。
「あ」の付く言葉、
「い」の付く言葉、といった要領で
単語を挙げ、ノートに書き写すという授業でした。
「きゃ」にさしかかったとき、生徒から
「きゃんでぃー」「きゃらめる」
の2つが挙げられました。
先生は「他にないかなー?」と言いましたが
誰も手を挙げません。
自信満々で手を挙げた私の答えは「きゃばれー」。
後ろのお母様方は大爆笑。先生も笑いをこらえつつ、
「そ、そうね、確かに『きゃ』がつくわね」と、
きれいな字で黒板に「きゃばれー」。
当然みんなのノートにも「きゃらめる」などに続き
「きゃばれー」の文字が。
なんでまたそんな単語を・・・
しかも授業参観なのに・・・。
でも、意味が分からないので
ぜーんぜん恥ずかしくなかった、
という汚れのない頃の思い出。
(花子)
●幼稚園の頃、
「人間は、一生のうちにしゃべる量が決まっていて、
たくさんしゃべる人は早く死ぬ」
と、思い込んでおりました。
漫才コンビの出ているCMを見ては
「ああ、あっち(たぶんボケの方)の人、
早く死んじゃう!
早く死ぬのに、いじめられててかわいそう!」
などと心を痛めていました。
その不公平さに周りの大人が無関心なのにも、
憤りと疑問を感じていました。
しかもそのCMを一日に何度も見るので、
そのたびに「あの人はまた死に近づいた・・・」と
気の毒に思い、なんとか死期を延ばせないかと、
代わりにテレビの前でその人がしゃべる間、
息を止めたりしてました。
(もりも)
●私は小さい頃から
”大きくなったらすごい美人になる”と信じていました。
亡くなった祖母が、いつも
“XXちゃんは楊貴妃に似てるから将来は美人になるね”
と言っていたからです。
ちなみに私の中の楊貴妃のイメージは、
目鼻たちがはっきりした
クレオパトラみたいなイメージでした。
だから、誰から何も言われなくても、
他の子が可愛いともてていても、
“いいの、私は将来美人になるから”
って悠長に構えてました。
楊貴妃が、のっぺり顔の
目の細い女性だという事を知ったのは、
中学生の時の歴史の教科書でした。
…どう考えても、私の平安顔から
クレオパトラ並の顔にはならないって分かるはずなのに、
何故そう信じていたんだろう。
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(ミニコメント)
なんと言っても
「お母さんとお父さんは、
宇宙人だって知ってた?
オレも最近やっと正体をつかんだけど、
気付いてないふりしてる。
じゃないと食べられちゃうからな・・。
姉ちゃんも気をつけろよ」
これが最高ですよ。
どう確信を得たのかはわかんないけど、
おそろしく真剣な顔で
このセリフを言ったことだけは、想像できます。
「靴のはきなおし」とか、子どもって、
潔癖症でもあるんですよねぇ。
「ねがえりを練習するわがこ」も、
とんでもなく、かわいらしかったです。
あなたや、あなたのまわりの「ガキばなし」は
postman@1101.com
こちらまで、件名を「ガキ」として、
どんどん、おおくりくださいませー!!!
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