(7月21日)
●幼稚園ぐらいの頃の話です。
石油がなくなったら世の中がたいへんなことになる
っていうような内容のニュースを聞いた後、
「世界中のすべての石油が採掘され尽くした瞬間
すべてのものがフッと消えてなくなる」
と思い込んでいました。家も家具いきなりなくなり
ボクの服も消えて裸になってしまう。
本気で世界のことを心配していました。
(わだち)
●むかし、うちの辺のコドモたちは
かなりの割合で「高速道路=東名」と思っていたと思う。
東名っていう言葉が高速道路を表してると。
(しらすぼし)
●小学校一年生のとき、体育でとびばこがありました。
うまく跳ぶことができず、悲しかったので
その日、布団をしいて、父に馬になってもらい
懸命にとびばこの練習をしました。
そしたら、次の体育の時間
先生がうまく跳べる人の例として私を指名しました。
「お尻が高く上がるから、よく見ていてください」
と先生の一言が。とてもうれしくて、
「お尻をたか〜くあげないと」とはりきった私は、
踏み切りで跳びすぎ、そのまま、
顔面からぼてっとマットに突っ込んで行ってしまいました。
みんなからは、爆笑が・・・。
てへへ・・・となりながらも、
あの時の満足感は忘れられません。
後に、母が先生に私ががんばって練習をしていた姿を
報告していたことを知りました。
両親と、先生に感謝。
(ひら)
●何かのお土産に付いていたドライアイスが
テーブルに置いてありました。
アイス(クリーム)だと思い込んだ
幼稚園児の自分は
親の目を盗んでぺろっと舐めてしまい・・・
その後の騒ぎは想像におまかせしますが。
(アツシ)
●4才ぐらいの時
ひとりお寺の長い階段を登っては
遊んでいた私に、叔父がやってきて(当時20歳)
「あれ、恐竜の卵なんやで、
もうすぐ生まれるからみときや」っと言われ、
毎日朝から晩まで「ガスタンク」を見ていた。
なかなか生まれないので祖母に聞くと、
嘘だと判明。かなり傷つきました。
(amico)
●おいらも小僧のときに
訳のわからん思いこみをしていたことがあります。
「水は高いところから低いところへ流れる」
ってことで、日本海側の川は南に向かって流れていて、
山の下を伏流水で流れ、やがては太平洋の大海原へ・・・
と高学年まで信じてました。
確かに地図の上では北が上なんだけどね。
社会の時間にホントの事を知った瞬間は、
目の前真っ暗でした。
(おいらはおやじ)
●11才の時、
親の仕事の都合でテキサスに渡米しました。
小学校のクラスで日本人は私1人。
数ヶ月たち、なんとか会話ができるようになり、
下校時はいつものように、
仲良くなったパキスタン人姉妹と、
黄色いスクールバスに乗っていました。
すると彼女らが、
「あなたは家で何語しゃべるの?」と聞いてきました。
もちろん「日本語」と答えると、
「家でも両親と英語で喋らなきゃだめ!
私達は家でも英語よ!」とまくしたてられ、
私は、ここで生き延びるには
「自分の言語や文化を捨てる覚悟」
をしなくてはならないんだと感じ、
泣き出してしまいました。その覚悟には、
語学や文化の壁をこえさせると共に、
母国語を忘れさせる作用があるようです。
高校2年の時に帰国して、大学からまた渡米。
現在ニューヨーク在住10年。
一時期「日本に絶対帰りたくない」時があって、
日本語が危うくなり、道端や日本食料品店等で、
日本人として見てもらえませんでした。
今では、ダーリンのように「京都移住計画」を立てたり、
日本製の服を着たり、髪は日本でカットしてるので、
店員さんも日本語で話しかけてくれます。
(はぽねさ)
●モノゴコロついた頃、
わたくしはブランコが大好きでした。
空を見上げて、
ゆあ〜ん、ゆよ〜んと揺られているだけで、
とても満たされていたのですが、
右手と左手が握らねばならぬ、
冷たい鉄の鎖に閉口しておりました。
素敵な浮遊感が、これによって妨げられている。
あるとき、いつものように
愛しのブランコに揺られるわたくしの上に
天啓が顕われました。
「なら、手を離せばよろし」
実行しました。
支えを失ったわたくしの体は、ぱかっと後ろに倒れ、
何が起きたのかわからぬうちに、
戻ってきたブランコの板がわたくしのおでこを・・・。
(匿名希望)
●子供だった頃、わたしは図鑑で読んだ
地球の構造に興味があったらしく、
毎日せっせと庭を掘って
ひたすらマントルと遭遇する日を楽しみにしていました。
数十センチ掘ったある日、
熱いマントルでヤケドしたらやだな〜と思いつつ
恐る恐る手を地面に当ててみると、
ホンワカ温かいカンジが。
やっぱり地球の中は熱かったんだ〜と
妙な納得をした記憶があります。
それって、スコップとの摩擦熱だったんですよねぇ。
(フィッシャー)
●六歳下の妹が私と母がお菓子作りで使っていた
シナモンに興味を示し食べたがっていました。
そのまま食べても美味しくないし
お菓子に使うものだから食べちゃダメ!
と言っていたのですが、ある日、
妹がココア色の牛乳を飲んでいました。
私と母はココアを飲んでいると思っていたのですが
妹がむせながらそれを一口飲んだところで
わかりました。それ、シナモン。
妹が茶色の粉=ココアしか
知らなかった時代のお話です。
(evian2号)
●「ガキ」ばなし、
とても興味深く読ませていただいています。
ひとりパソコンの光にてらされながら
フフフっと静かに笑う快感もさることながら、
最近理解不能なうちの息子たちの行動にも
いろいろな想いがあるのだなあと
あらためて感じられるようになったことが
大きな収穫です。
これまで「この忙しいときに何やってんのよ」と
思っていた不審な行動が、
「この行動は豊かな想像力があってこそのものだわ」
などと思うと愛しく思えるので不思議。
たいていのことは笑って許せる
ふところの大きな母になれるような気がします。
(オカンライター)
●マンホールのふたに、
「オスイ」(たぶん汚水のこと)と書いてあることから、
中には、オスの地底人が住んでいるんだと
みんなで意見が一致。外で遊ぶたび
「ここ、オスが住んでるよ!」
「こっちは…書いてないから、メスの家!」
とドキドキしながら確認しあっていました。
地底人に会うことはありませんでしたが…。
(和)
●私のガキ話です。
多分幼稚園に入る前だと思うのですが、
うちの親は散歩などで
犬の散歩をしてる方を見かけると、
私にこっそり
「犬はね,**(私)の見ているところでは
4本足で歩いているけれど,
見ていないところでは
2本の足で立って歩いているんだよ」
とささやいていました.
すっかり真に受けた私は,
犬に会う度に何度も犬の方を
見てないふりをしてから
さっ!と犬の方を見て二足歩行を
確認しようとしていたのですが、
どんなにうまくやっても
いつも犬は4本の足で歩いていました(当たり前)。
それで、一時期すっかり
犬を怖がるようになってしまったらしい。
(ばななん)
●昔お誕生日に買ってもらったサッカーボール。
シルバーとブラックの、
それはそれはかっこいいものでした。
おおはしゃぎの私はその日の大雨をものともせず、
というよりむしろ
そんな自分に酔いしれながら、早速、
「ドライブシュート」を練習するために
外に出てゆきました。
(ゴロしか蹴れなかったんですけどね。)
・・・やがてボールはどぶに落ち、
拾おうとした私がそこに見たものは
ごうごうと渦巻く大量の泥水、
そしてもはや影も形も見えないボール。
もらったボールをその日になくした私は、
うって変わった憔悴ぶりに
心配する親を尻目にそれでも必死でアタマを働かせ、
そして「そうだ東京湾に流れ着いているに違いない」と!
その日の夜中、悲壮な覚悟でこっそりと
東京湾まで出かけようとした
私はあっけなく親に見つかりました。
わずか1時間程度で別れるはめになったそのボール、
今でもふと思い出します。
(ちび)
●私も昔落とし穴を作ったことがあります。
当時、作り方を書いた漫画があって、
どうしても作ってみたくなり、
友達と2人で彼女の家の庭に落とし穴を作りました。
結構深く、広く穴を掘り、新聞紙をかぶせて、
その上にうすく土を盛ってカモフラージュしてました。
完成したことだけに充実感を覚えて
その日はさっさと帰りました。
その翌日、友達から、彼女の父親が
出勤前にその穴に落ち、
えらい叱られたことを聞かされました。
大笑いしたものの、私たちは
「落とし穴を作る」ということだけが目的であり、
誰かを落とそうという気はなかったので
ちょっと罪悪感を覚えました。でもその漫画には、
「穴にはフンやドロを入れておくと効果的」
と書いてあり、それに従わなかっただけマシですよね。
(たまよん)
●みなさんの投稿を読んでいると
自分のバカ話も思い出しました。
(その1)
幼稚園の時、ある日先生が
みんなを整列させて園を出たので、
きっとどこかに散歩に行くんだと思って
ついて行ったところ、だんだんと園児が減り、
気づいたときには私ひとり。
泣きながら、園の向かいにある
マンションまで連れて帰ってもらいました。
お散歩ではなく、ただ集団で帰宅しただけ・・・
(その2)
これまた幼稚園で。
ある日、これは本当に
お散歩に行こうということになり、先生が
「幼稚園バッグを持って出かけましょう」
と言ったので、なんでだろうと思いながら
バッグを持ってついて行きました。
お昼になってみんなお弁当を食べ始めたのを見て、
「私お弁当なんて持ってきてない」
そう、「幼稚園バッグを持ってこい」
=「お弁当持参」ということでした。
みんなはバッグにお弁当を入れていたけど、
私は母お手製のお弁当入れ。
幼稚園バッグの中身は連絡帳だけ・・・
先生にお弁当をわけてもらい、
それをきいた母には呆れられました。
(その3)
小学校4年生の時、弟が1年生でした。
低学年と高学年だから
同じ時間に終わることはめったにないのですが、
たまたま同じになる日があって
一緒に帰る約束をしました。
放課後、友達とおしゃべりをしながら
気づくと家に帰っていた私。
忘れられた弟はしばらく私を待って、
ひとりでさみしく帰る途中、
あまりにふらふらしていたので
田んぼに落っこちたそうです。
泥んこで泣きながら帰った弟から母が事情をきいて、
そこではじめて約束を思い出した私。
呆れられました。
小さいときから忘れっぽかったんです。
「今日は出かけるから早く帰っておいで」
と言われても忘れる。叱られていて、
「なんで叱られたか言ってみなさい」
と言われるともう忘れている。
だから、私が忘れっぽいのは生まれつき。
(まっきー)
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(ミニコメント)
とてもまじめな、11歳の頃の
「日本語を捨てなきゃいけないのか」
と思ったという話も載せて、そういう話を
理解できる一方で、こんなガキもいるんだ、と
リアルに浮かびあがらせたい、と思いました。
いまも、毎日、
不審な行動におどろきつづけている
母親からのメール、たくさん届いています。
「この忙しいときに何やってんのよ」
当然、そういうことを思うだろうなぁ。
あなたや、あなたのまわりの「ガキばなし」は
postman@1101.com
こちらまで、件名を「ガキ」として、
どんどん、おおくりくださいませー!!!
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