『半袖』
 今井美樹

 
1990年(平成2年)
 アルバム『retour』収録曲

 本当の私と、
 彼を好きなもう一人の私。
(いちご)
あなたは 愛してはいけない人じゃなく
決して愛してはくれない人

当時私が働いていた職場は、
夫婦で同じ部署に所属することが出来ませんでした。
そのため、社内恋愛で結婚した私達夫婦は、
私の方が勤務地を移動することになりました。

そこに、彼がいました。

初めて見たのは、彼が私の上司と話をしている姿。
大きな声、偉そうな態度、
肩で風を切るような歩き方。
全部、苦手でした。
こういう人とは、関わらないようにしよう、
と思いました。
でも、彼の部署の業務処理をするのが
私の仕事でしたから、顔を合わせること、
内線でしゃべることはしょっちゅうでした。
私はなるべく避けようとしているのに、
彼はどんどん近づいてきました。
失敗すれば、助けてくれました。
目があえば、笑いかけてくれました。
そして、気付いたら、惹かれていました。

でも、私は結婚しています。
夫のことは大好きです。
だから、ただ、
俳優さんに憧れるような気持ちなんだと、
自分に言い聞かせていました。
そう考えることが、
すでに心を持っていかれている証拠なのに。

ある日、会議が終わった後、彼に聞いたんです。
「結婚、なさらないんですか?」
指輪をしていない彼は、当然独身。
でも、彼女がいるのか知りたくて、
探りをいれました。
一呼吸おいて、帰ってきた答えは
「オレ、子供いるんだよ」
目の前が真っ白になって何も言えずにいると、
手帳から1枚の写真を出して見せてくれました。
庭先に出されたビニールプール。
その中でうれしそうに
シャボン玉を吹いている男の子。
3歳くらいでしょうか。
そしてその子をひざに乗せ
一緒にシャボン玉をしているのは、彼。
明るい日差しの中で、
たくさんのシャボン玉が虹色に光っていました。
「なあ、いい写真だろ」
本当に、素敵な写真でした。
家族のあたたかさを写真に撮ったみたいでした。
でも私がショックだったのは、
そんな写真を撮れる奥さんの存在でした。
この写真を撮ったのは、奥さん。

夫のことを愛しているのに、
こんなに彼の事を好きになる
自分の気持ちが分かりませんでした。
きっと心の、奥の奥の方にいたもう一人の私が、
夫とは全く違う彼に惹かれたんだと思います。
そしておそらく彼も、
奥さんとは全く違う存在として
私を必要としていたのでしょう。
私も彼も、お互いの家庭を壊す気持ちはみじんも無く、
むしろ大切にしながら、
それでも2人で逢うようになりました。
8歳年上の彼にいろいろなことを教わり、
自分に自信を持つうれしさを知りました。
本当の私と、彼を好きなもう一人の私。
二人分の充実感で、
何だか自分が輝いているような気さえしました。
夫に転勤の辞令が出るまでは。

転勤先は広島。
東京育ちの私には、
日本地図上でも正確な場所を言えないくらい、
接点のない土地でした。
「おい、どうするんだよ!」
内線でいきなり声を荒げた彼は、
社内通達で人事異動を知ったようでした。
「どうするって、会社辞めて、一緒に行くしか‥‥」
しばらく黙ったままだった彼が
絞り出すように言った言葉は
「‥‥そうか。いや、そうだよな」

引き継ぎの関係で、
私が広島に引っ越すのは夫より2週間後になり、
彼に新幹線の時刻や座席の番号まで伝えると
「狙撃する訳じゃないんだから、
 そんな詳しく言わなくていいよ」
冷たい気もしたけれど、仕方ないとも思いました。

移動日は平日のお昼過ぎ。
彼からは、電話もない。
今日広島に発つっていうことさえ、
忘れているかもしれない。
全部、終わったんだ。
淋しかったけれど、受け止めなくちゃ、
と、必死でした。
東京駅を出発した新幹線が品川あたりを通る時、
会社のビルが見えるはず。
いろいろな事があった職場を
最後にしっかり見ておこう。
本社ビルの12階。
彼のいるフロア。
今頃は、昼休みが終わって忙しくしている頃かな。
それとも今日は外回りかな。
窓の外に近づいてくるビルの、
階数を数えようとしたその時、私は息をのみました。
ひとつだけ、
全部の窓のブラインドがしまっている階がある。
でも、左端の窓だけ開いてる。
そして、彼が、腕組みしながら
こっちを見ている。仁王立ちで。
遠くて、小さくて、顔も分からないけれど、
絶対に彼だと確信しました。
覚えてたんだ。
狙撃みたいなんて言ってたくせに。覚えてたんだ。
涙が、止まりませんでした。
加速していく新幹線は
あっという間に通り過ぎていくのに、
本社ビルだけがゆっくり小さくなっていくようでした。
携帯電話がまだトランシーバーみたいな大きさで、
持っている人が珍しい時代です。
すぐに連絡することも出来ず、
広島駅の公衆電話から職場にかけて、
理由を無理に作って彼を呼び出してもらいました。
「広島、着いたのか。見えたか? あれ」
「はっきり見えた」
「そうだろ! オレは君が見えなくても、
 君からオレは絶対見えるって自信があったからな。
 いい考えだったろ、ブラインド。
 あれ、全部閉めるの結構大変だったんだよ」
得意げに話す彼の声を聞いていたら、
また、涙が出てきました。
「元気でやれよ」
明るく、言ってくれた。
そして、受話器を置きました。

あれからもうすぐ20年。
広島の生活にもすっかり慣れ、
穏やかな毎日を送っています。
もしあの時、今みたいに携帯で簡単に連絡がとれていたら、
もっと違う展開になっていたかもしれません。
携帯がなくて良かった。
今では見かけることも少なくなった
緑色の公衆電話を目にすると、
あの日の事を、ちょっと思い出したりします。

(いちご)

堂々の長編です。
いや、映画を1本観たかのような。

ともすれば社会的倫理に反する構造の
この物語において、
すごくいいなと思うのは、
「あれからもうすぐ20年」
というフレーズですよね。

ほんとうに、
いろんな形の恋の思い出があるけれど、
このコーナーに寄せられる投稿は
あっさり1行で10年とか20年とか
過ぎちゃうから、
いい感じに輪郭が甘くなるんです。
やっぱり、生々しすぎると
「いいねぇ」というよりは、
「それで? それで?」みたいになっちゃうから。

それにしても仁王立ちの彼よ。
昼休みにフロア中のブラインドを
突然閉めだす社員がいたら、
そうとう個性的だぞ。

「彼に新幹線の時刻や座席の番号まで伝える」
というのが、伏線になってるとは気づかなかった!
いや、小説じゃないんだけれど、
そういう展開に結びつくとは‥‥!
不倫にこの言葉は似合わないかも知れないけれど、
座席番号を伝えるっていうのは、可憐な行動だなあ。
とてもかわいいなって思って読んでました。
それがちゃんと伝わったんだってことが、
予想もしていなかったかたちでわかる。
すてきだなあー。
最高の、そして最後のプレゼント。
その思い出だけで、生きていけそうです。

さかのぼって、

「本当に、素敵な写真でした。
 家族のあたたかさを写真に撮ったみたいでした。
 でも私がショックだったのは、
 そんな写真を撮れる奥さんの存在でした。」

というところも、すごい。
写真って、視線の延長で、
ふたつの視点がぶつかったところにシャッターがある。
だから、撮る人と撮られる人の関係や距離や、
そのときの「感じ」がちゃんと出るんですよね。
つらかっただろうなあ、そんな写真を見るのって。

彼、昼休みにフロアに残って
ブラインド閉めまくったのかな。
戻ってきた同僚たちが
「誰だよ、ブラインド閉めたの? 開けよう開けよう」
なんてことにならなくてよかったですね。

本社ビルの、光る窓に
仁王立ちの彼が見える。見えます。
涙の凸レンズで
ものすごく拡大して見えますよ!

こういう別れ方、すがすがしくて
(ほんとうにつらかったでしょうけど)
いいなぁ、と思いました。
しかも彼、「君」っていうんだなぁ。
呼び方もいいな。

おふたりとも、大切にするものが
同じようにわかっていたのも
理想的な恋愛だと思いました。
気が合うって、
(すごくへんな言い方でごめんなさい)
こういうことかと思います。
どちらか一方が引きずったりするわけでなく、
関係を一方的に切ったりするわけでもない。
同じ時期に、同じように
「そうだね」
と思い合えたことに、拍手です。

だって、私だったら、
会社の窓なんて見ませんもん。
ブラインドが降りている階があっても
「????」となるだけで、
彼のその意図や思いに気づかないです。
ましてやそこに立っているなんて。
すごく共有できている部分が多い
おふたりだったんですね。

終わったことも含めていい関係だったんだ、
と思いました。
投稿ありがとうございました。

ああ‥‥なんという大作。
一気に読んじゃいました。
後半の疾走感はすごかったです。
あの速度感がきっとそのまま、
当時のふたりのはなれていく速度感だったんでしょうね。
スガノさんの言うように、
互いに引きずり合うことなく
新幹線の早さですっぱり離れる。
ここはいいなぁ、と思いました。

それにしても、
「携帯がなくて良かった。」
というのは、ほんとにそう思います。
それはやっぱり、
終わるべき関係だったと思いますから。
きちんと終わることができたから、
広島でのおだやかな日々があるわけで。

そうやって考えるとみなさん‥‥。
いま、は怖いですね。
「終わらせないアイテム」がいくらでもあります。

現代の道ならぬ恋の怖さに思いを馳せつつ、
今回はこんなところで。
次は土曜日にお会いしましょう。

 

2012-08-29-WED

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