もちろん答えなんで出ませんけど、
バトンは受け取りますとも。
出口のない迷宮をそれと知りつつめぐるように
恋愛を真ん中において
真剣に語り合うという遊びは
そりゃぁ、たのしいものですから。
ええと。
ほんとは女性に限らず、ですが、
ぼくらの周囲にしばしば見受けられる
都心在住30代女性たちの
「口で言うほど恋愛の優先順位が
高くない問題」について。
恋をするのはとっても恥ずかしいことですし、
それを相手に伝えるとなったら
照れも恥ずかしさも倍増します。
そりゃもう、桁違いです。
声はうわずるし、明らかにばればれな偶然を装うし、
冷静なふりしてめちゃめちゃ笑顔になったりするし、
あ、あいつ、絶対恋に落ちてるわ、って
周囲に完全に知られてるってわかってるのに
その延長上の行動を取らざるを得なかったりするし、
万に一つの接点をもとめてうろうろしたりするし、
もう、恥ずかしくて恥ずかしくてたまりません。
その恥ずかしさを突破するために
どうしたらいいのかといったら、これはもう、
「熱病に浮かされたような一時期」の
力を借りるほかないわけです。
その熱病の熱をある種の麻酔がわりにつかって
いろんな感覚を麻痺させたうえで、
ちぇすと! と行動するのが、
一般的な恋の伝達というものではないでしょうか。
逆にいえば、
「熱病に浮かされたような一時期」なくして、
照れと羞恥の固い固い結晶を砕くのは
容易なことではありません。
そういうことってありえるのかな、
と思えちゃうくらいです。
あ、でも、そういうことを
ある種の趣味のようにする人は平気なのかな。
話をもどすと、その、
「熱病に浮かされたような一時期」って
やっぱり十代と二十代に頻繁に訪れますから、
「熱病期」が過ぎてしまうと、
照れくさいことはより照れくさく、
恥ずかしいことはより恥ずかしくなるんでしょうね。
というような、そりゃそうだろ、という感じの
ありふれたことを延々と書いたあとで、
暴論をひとつ書かせていただきたいんですけど、
ぼくの周囲にいる人でいえば、
若い頃になんらかの表現活動をしてる人って、
恋愛において「熱病期」なしに
照れと恥ずかしさを乗り越えて、
恋を遂行させてますよ。
(結果が叶うにせよ、叶わないにせよ)
なぜというに理由は簡単で、
どのような規模であれ、表現活動って、
ものすごく恥ずかしいことだからです。
だから、投稿にもどると、
テレビのなかの男性歌手が
うっとりと恋を歌うのは
その人にとってきっと恥ずかしいことではない。
そしてそれを裏づけるように、
恋愛の歌をうたう人は
しばしば実生活でも恋愛の話題を
お茶の間に提供したりする。
で、さらに、ということでいうと、
この怒髪天の歌というのは、
いちばん恥ずかしいことを
やってるんじゃないかなあ。
だからこそ、かっこよさがある。
きっと、この投稿者の方も、
これを書いて投稿するのって、
けっこう恥ずかしかったはずですよ。
その意味でいえば、こういう表現の向こうに、
恋も、告白も、成就も、あるんじゃないかなぁ。
ああ、なんだか話が
おかしなところにたどり着きました。
でも、そういうふうに
思いも寄らぬ場所で意外な風景を見るのも
恋愛をめぐる雑談の醍醐味ですよね。
たいへん長くなり、失礼しました。
みなさんの、照れと恥ずかしさを超えた投稿、
お待ちしております。 |