『関白宣言』
 さだまさし

 
1979年(昭和54年)

両親にも恋の歴史が
あったのかと
初めて感じた瞬間でした。
(ぽちか)

何もいらない 俺の手を握り
涙のしずく ふたつ以上こぼせ

「関白宣言」の
歌詞のような父の人生
だったんじゃないかな‥‥。
(空色の雲))

お前のお陰で いい人生だったと
俺が言うから 必ず言うから

私が小中学生の頃、テレビの歌番組で流れる歌は
ほぼすべてがワンコーラスのみでした。
2番以降がどんなにいい歌詞であっても、
演奏されるのは1番だけというのが常でした。
しかし、この『関白宣言』は
1〜2番と3番の内容のギャップゆえか、
たいていフルコーラスで演奏される
数少ない例外であったと記憶しています。

ある日、父と並んでテレビを見ていたとき、
この歌が流れました。
父はわりと涙もろいところがあるので、
3番の内容を既に知っていた私は、
急にチャンネルをかえることもできずに
ややドキドキしながら聴いていたのを覚えています。
果たして3番の途中にさしかかったとき、
父が大きく鼻をすすりあげました。
そして曲が終わったとたん、
慌てて立っていきました。(おそらく洗面所へ)

繰り返しになりますが、
父がこの歌を聴いて泣くことは私の想定内だったのです。
しかし、母は泣かないだろうと思っていました。
なぜなら、涙もろい父は一方で
それこそけっこうな関白でもあり、機嫌の悪いとき、
理不尽に母を叱り付けたりすることもよくあったからです。

それからしばらくして、
今度は母と二人でテレビを見ているとき、
またもや関白宣言が流れたのでした。
歌は進み、3番へ。
そっと窺っていた母の頬に、
涙のしずくが静かに伝うのを、
私は信じられないような気持ちで見ることになりました。
両親にも恋の歴史があったのかと初めて感じた瞬間でした。

二人とも世を去ってずいぶんになります。
父は、六つ年下だった母に十三年も早く先立たれてしまいました。
歌のようにはいかず、残念だったことです。

怒りっぽいけれど家族をそれはそれは愛していた父。
歌が大好きで、いつも穏やかでやさしかった母。
この歌を聴いてそれぞれが泣いた心境について尋ねる機会は、
とうとう持てないままでした。
この先再会したときには、できれば聞いてみたいと思っています。
(ぽちか)

これは、私の恋愛のお話ではなく
私の両親の話なんですが‥‥
私の父は、職人肌の厳しい父でした。
母からしたら関白で我儘な夫でもありました。
年とともに弱くなり、
また、いくつかの病気も持っていた父を
数年まえから母が自宅で介護していました。
何度か病院へも入退院を繰り返しましたが、
病院嫌いの父は先生や看護師さんの言うことを聞かず
ご迷惑もかけましたし、病院に対する不信感や不安もあり
最後まで家で看たいという母の強い思いから
自宅で往診の先生に診ていただきながら
家族にかこまれて
先月、81歳で父は亡くなりました。

父の最後の日、
朦朧とする意識の中で父は手探りで何かを探していました。
それは娘の(私の)手ではなく母の大きな手。
その母の手を握って父は静かに呼吸を止めました。

「最後にお父さんは何か言いたいことがあっただろうに‥‥」

後悔や悲しみで日に何度も押しつぶされそうな日々。

そんな中、先日
父が大事にしていた古いアルバムを母と見ていたら
アルバムの間に祝儀袋2・3枚、挟んでありました。
それは母が父のお誕生日に渡した祝儀袋。
「いつまでも元気で頑張ってください」と母の字‥‥
そして父の字で
「ありがとう」と書き足されていました。
父の温もりがそこにはありました。

母と私は胸が一杯で涙が止まらなくなりました。

父はたぶん‥‥
おそらく‥‥
最後に母の手を握り
「おまえのお陰で いい人生だった」と
「俺の愛する女は、生涯おまえただひとり」と
心の中で言ったんじゃないかな‥‥
‥‥そんな気がするのです。

「関白宣言」の歌詞のような
父の人生
だったんじゃないかな‥‥。

(空色の雲)

今回は、ふたつの投稿を。

どちらもご自身の恋の思い出ではなく、
ご両親の愛の物語です。

胸がいっぱいです。

私事ですが昨年の3月に他界した母が最期のとき、
父の手を強く握りしめていたことを思い出しました。
その様子をみて、
「ああ、このふたりも恋人同士だったんだよなぁ」
と、ふいに気づきました。
よく言われることですが、
おとうさんとおかあさんは、
むかしからおとうさんとおかあさんじゃないんですよねー。
ときめく恋をした、ふたりだったわけで。

‥‥うん。
やっぱり、胸がいっぱいです。
(ぽちか)さん(空色の雲)さん、ありがとうございました。

それにしても、つくづく、
さだまさしさんは、すごいなあー。

困った。続けることばがない。
たぶん、読んでいるみなさんも、
無理に、ことばをもとめないでしょう。

ふたつの投稿も、
山下さんのお母さんのエピソードも、
いろいろなものをあふれさせるので、
困りました、続けることばがない。

そして、その、あふれそうで困る感じって、
『関白宣言』の3番を聴いてるときの感じに
とても似ているような気がします。
関係ないけど、ぼくは『関白宣言』の
「♪らーらー」のコーラスがたいへん好きです。

うん。困ったね。
もう、胸がいっぱいです。

おとうさんとおかあさんは、恋愛のすえに
(結婚が決まっていた人もいるだろうけど)
いろんなことを乗り越えてきています。
子どものときは他人だった者どうし、
とても不思議です。

「お前のおかげでいい人生だった」と
最期に言える人がいたら
それがとても幸せです。

たとえ一方通行でも
相手が子どもでも友人でも、
そう言えるようになってるといいなぁ、と
自分は思います。

おぼえてます、『関白宣言』は、
大ヒットした当時、
たいへんな物議をかもした歌でもありました。
おとなの女性たちから、
男がいばりすぎだ、みたいな論調で
さださん、やりだまにあがったりしてた。
ぼくは中学生でしたが、
ちょっとふしぎな気持ちでそれをながめてました。
さださんがこの曲でえがいたことは
そういうことじゃなくって、
ほんとうにすてきな愛のはなしだと思ったから。
ある意味、ファンタジーだといえるくらい
素敵なおはなしだと思ってた。

まさしく、このふたつのおたよりは
そのきもちを裏付けてくれるものでした。
「でしょう?」って。
「関白宣言って、そういう歌なんだよ!」って。
そして、じっさいに、いろんなお家で
こんなふうな愛のものがたりが
ひっそりとつむがれているんだということに、
また、感動しました。

先日「AFRAと曽我部」のおふたりが「ほぼ日」で
ユーストリーム中継ライブをしてくださったとき
この曲を歌ってましたよ。
それもとても素敵だったなあ。
ぼくもこんどカラオケで唄ってみようかな。

みなさまよい週末を!
そして次回は水曜日にお目にかかりましょう。

2013-01-19-SAT

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