『よろしく哀愁』
 郷ひろみ

1974年(昭和49年)

夢の中でも私たちは
交わろうとしていた。
あのころみたいに。
(ヨージャ)

会えない時間が愛 育てるのさ

「まただ。」

昨夜、またあのひとの夢を見た。
これでまたしばらくは、
彼のことで頭がいっぱいになってしまう。

定期的に、亡霊のように現れる夢の中の彼。

今回のもすごくリアルだった。
顔も、声も、身体もぜんぶ、
私が覚えている彼のままだった。
唯一執着した男。ぜんぶが好きだった。

夢の中でも私たちは交わろうとしていた。
あのころみたいに。
あらゆる手順がもどかしく、
すぐにひとつになろうとしたが、避妊具が見つからない。
夢の中の私は思う。
「できてしまうかもしれない。」
でもとまらない。
息子(実在の我が子)に弟か妹ができるかもしれない。
息子は喜んでくれるだろうか。
そう思ったところで目が覚めた。

その日は一日中、彼のことを考えて過ごした。

彼と知り合ったのは22年前で、
実際に会ったのはおそらく10回ほどで、
最後に会ったのも20年くらい前なのに、
私の心の奥にはまだ、彼が棲み着いて離れない。
そして何の確証もないのに、
それはきっと彼も同じだと感じている。

心は通じているのだ。
きっと彼も定期的に私を思い出して、
あちこちを熱くしている。
なんて表現は、安っぽいだろうか……。

とは言え当時の私たちが
『付き合っていた』かどうかは分からない。

その関係は身体だけだったようにも思うし、
深く愛しあっていたのかもしれないとも思う。
ただ、身体だけの関係ならもっと手軽な女性もいただろうが
(主にゴネないという意味で)、
彼が、会う度に年下の私に酷くなじられたり、
シャワーを浴びている最中に鍵も閉めずに
家を出て行かれてしまう等の数々の面倒を承知で
私に電話をしてきていたのは、
やはり「愛」ゆえのように思うし(そう信じたい)、
いくつもの面倒や制約があっても、
ほかの女性ではなくて「私を」家に呼び、
しっかり私を抱いたのは、愛じゃなくてやっぱり、
彼にとって私の身体が好みだったのかもしれないなぁ……
とも思う。

結局、私たちの関係は、今なお謎のままである。

ひとつだけ言えるのは、
どこか人として欠陥があるんじゃないかと思うほど
性に潔癖で、性欲に乏しく、
いわゆる性交渉が汚くてたまらないと感じてしまう私が、
彼とであればいつでもきっと、
すぐにそうできてしまうに違いないと確信していること。
倫理的に、実際そうするかはさておき。
いや、人の妻である私が
倫理を考えればできるわけはないのだが。

私の中に絶えずある、彼を求める強い欲求は、
肉としての欲ではなく、心の渇望を満たすためのものだ。
低俗も高潔もない。ただただ彼が欲しい。
彼もおそらく同じ気持ちだと思う。

私たちは、もう20年ほど会っていないし、
これからももうきっと会わない。
だからもう、あの身体を抱くことはできないのだ。

けれど、もし許されるなら、
死ぬ前に1度くらいは彼に会ってもいいんじゃないかと思う。
(許しは誰に請う?許すのは誰?自分?
 だったら、あと1度だけは会ってもいいはず)

自分の感情を、
「会えない時間が愛育てるのさ」
という歌詞になぞらえたのは彼だった。

電話口で私は、バカじゃないの、とわらった。

でも、もう一度だけ、彼を抱き、彼に抱かれたいと思う。
互いがどんなに醜く、老いていたとしても、
きっとその瞬間は幸福だろう。

20年育て続けた愛の味。私たちはそれを味わう権利がある。

(ヨージャ)

性ということについて、
これほど正面から書かれた投稿はたぶんなかったと思います。
身を絞るような、くるおしい文面。
小説の一部を切り抜いたように‥‥
というのはほんとうにそうなのですが、
それだけではすまされない事実に根ざした想いが
ずんずん読み手に響いてきます。

結婚をしている人の恋、
つまり不倫と呼ばれる事柄について
ここでも何度か取り上げてきたことがあります。
「倫理を考えればできるわけはないのだが。」
と(ヨージャ)さん自身も書かれていますが、
それはまったくそのとおりで‥‥。

‥‥‥‥でも‥‥そうですね、
いろいろ考えましたがやはり、
この強い想いに満ちた文面に対して、
意見やアドバイスめいたことを
やすやすとは言えないと思いました。
どうか明るいほうへ向かいますようにと
祈るばかりです。

最近、ここへコメントを書くために
考える時間がどんどん長くなっている気がします。
それだけ投稿の密度が濃くなっているのでしょう。
「恋歌くちずさみ委員会」、すごいことになったなぁ。

「よろしく哀愁」いい歌ですよね。
(ヨージャ)さんが挙げてる箇所もいいけれど
♪友達と恋人の境を決めた以上 もう泣くのも平気♪
というあたりも好きです。たしか2番では
♪ふたりのアパートがあればいいのに♪
っていうんですよね。
この歌もそうですし、たとえばジュリーの
「時の過ぎゆくままに」とか、
百恵ちゃんの「ひと夏の経験」とか、
淳子ちゃんの「はじめての出来事」とか、
小学生だったぼくはそのあたりの大ヒット歌謡曲に
ほんのりとした性のにおいを感じて、
なんだかドキドキしてました。早熟だったかなあ。

弘兼憲史さんの『黄昏流星群』の
プロローグのような(ヨージャ)さんの恋物語。
「ふたりにしか、わからないこと」
「本人にしか、わからないこと」が書かれていて、
やっぱりドキドキしながら読みました。
主語に「私たち」を使うことを躊躇しない、
その思いの強さに、おどろきます。
20年前のことが、いまもからだに、のこっている。
いまも、ふれあいたいと願う。
それってすごいことだと思います。

夜に見る夢って面白いですよね。
「なんでいま、この夢を見るんだろう?」と
起きてからしばらく考えちゃうことがあったりします。
どんな内容かは、ぼくは、ナイショにしておこうっと。

昔の恋が自分にとって
抗いがたく大きな意味を持ってしまうのは、
それが昔のことだからじゃないかなぁ、
と思うことがあります。
いえ、ことば遊びじゃなくて。

ぜんぶの恋や思い出を並列にならべて
均等に眺めてみたら、
どの恋がいちばん強く輝くのだろう。
そんなふうにも思うのですが、
それはもう、根本的に無理なことですね。

「遠くのものは大きく、
 近くのものは小さく見えるだけのこと」
というのは、スタジオ・ジブリの秀作
『耳をすませば』に出てくるセリフですが、
ぼくがこのセリフを好きなのは、
過去を軽んじるのではなく、
いま感じる大きさにとらわれていたら
身動きとれないよ? と、
つい拘泥しがちな直近の価値観を
ふっと「ちゃら」にしてくれる
思いがけないベクトルを持っているからです。
まるで、ゴキゲンな友だちの無意識なひと言みたいに。

そしてそのセリフの前には
「恐れることはない」というひと言がある。

そんなバロンのひと言に背中を押されるように、
最後の最後で、
たいへん生々しく投稿へ戻るとしたら、
昔といまのセックスに
順序なんてつけられないっていうことです。

「もう泣くのも平気 よろしく哀愁」
この一行がすごいなぁ、と
昭和の頃から思っていました。

いやいや、平気じゃないから泣くんでしょう、
しかも哀愁とともに生きてくなんて、耐えられない。
‥‥と、思っていたのですが、
そう言い切るしかない状況もあるわけですね、
安井かずみさん。

そしてこの歌は、もつねづね
すごい歌だよ、と言っておりました。
(イトイの歌詞講座 第3章「愛と不動産」
 これはまた別の機会にぜひご紹介したく‥‥)

そんなすごい歌が恋歌になった投稿です。
最初の「まただ。」から
最後の「愛の味」まで、びっしりすごい。
読ませていただいてありがとうございます。

片想いではない大人ですからね、
どこまでも交流を深めたいわけです。
でも、そうしてはいけない。

からだが好みって、あるのかな?
よくわからないのですが、それはもう
「ものすごく好き」ということなんじゃ
ないでしょうか。
倫理的に見ればあってはならない恋愛ですが、
その「好き」の気持ちはとめられないと思います。

終わってなんかない。
ずーーーっと、つづいてる。
「会えない時間」が20年つづいてる。
そんなこともあるのだなぁ。

はぁーぁ。
よろしく哀愁か。
それは一生か。
涙が出ます。
ありがとうございました。

ではまた。恋歌くちずさみ委員会、次は水曜です。

2013-02-16-SAT

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