『住所録』
 さだまさし

 
1981年(昭和56年)
 アルバム『うつろひ』収録曲

二度鳴らしてすぐに切る。
時間をおかず
またすぐかけ直す‥‥
(島の乙女)

指が覚えたダイヤルを
夜中にそっと廻してる
昔の合図を忠実に守り
二度鳴らしてまたかけて


携帯電話もパソコンのメールも無い時代のことでした。
遠距離恋愛は、逢えない。
その距離の分何倍も何倍も気持ちが熱くなります。
それはもしかしたら後から考えれば、
ロマンチストの二人がそういう状況の恋愛そのものに
恋をしていたのかも知れません。

二人の中間地点で逢えるのが
仕事の休みが取れる数ヶ月に1回。
あとは手紙と電話。
この頃の親は厳しく娘の行動を見ていたものです。
男性の名前で手紙が来ようものなら、
「誰だ!」と聞くのも当たり前でした。
ですから手紙は会社の封筒で
「◯◯生命保険会社」と名前の入ったものでした。

電話はお互い自宅へでした。
家族が出ることも容易に想像出来ます。
我が家への電話は両親が出るかもしれません。
その頃は祖父母も健在でした。おまけに妹までいました。
「今日は彼が直ぐに出ますように」
と回す指も震えて間違えてまたかけ直す。
そんな事が続いていたので、
“呼び鈴を二度鳴らしてすぐに切る。
 そして時間をおかずにまたすぐにかけ直す”
これだとお互いからの電話なので
飛んで出る事にしよう! というルールを決めました。
二度鳴って直ぐに切れた時には
電話の前でドキドキしながら待ったものです。
電話のベルにこれ程敏感になった事は
この時期だけだった気がします。

中間地点の京都で年に数回逢えるだけでした。
それもやがて帰宅の時間が迫ってきます。
西へ帰る私と東へ帰る彼は京都駅のホームで別れます。
私の乗った新幹線を先に見送ってくれます。

新幹線のドアが閉まる瞬間、
「行ってらっしゃい! 早く帰ってこいよ!」
と彼が告げました。

30年以上経った今でもその言葉は忘れられません。
自宅に帰る私に、
「行ってらっしゃい」と言い「帰ってこいよ」と・・・
きっと他の人が聞いたら、
なんと気障なセリフをと思うでしょうが、
恋する二人には周りは見えません。
熱い思いに包まれて新幹線はホームを離れました。

逢えない状況が益々恋心を募らせていったのは
言うまでもありません。
しかしご多分に漏れず、
お互いに近くにいる人をやがて好きになり、
結ばれる事はありませんでした。

でも今でも
何かあると相談のできる相手になっていることは、
結ばれなかったからだとも思っています。

指が震えて電話がかけられない程の思い出は
今の私でもちょっとドキドキする良い思い出です。
今では携帯電話をかける時に
指が震える事も無くなりました。

(島の乙女)

「トゥルルルル トゥルルルル」
で、1回電話を切って、すぐにもう一度かける。
やりました、やりましたよー。
(島の乙女)さんの投稿で
久々にその「作戦」を思い出しました。
若い読者の方はピンとこないかもしれませんが、
昔の電話は、「誰からの電話か」が
一切表示されなかったんです。
「もしもし」と出てから誰からの電話かを知るんです。
だからこういう作戦で、当時の若い恋人たちは
「ぼくだよ」「わたしよ」を相手に知らせていました。
2回鳴らす合図で、まず、電話の近くに来てもらう。
‥‥つながることがどれだけたいへんだったか。
しかもそう、この投稿にもあるように、
先方家族の壁をかいくぐらなくてはならなかった。
2回鳴らす合図の1回めで
ずばっとお父さんが電話をとったりするんです!
‥‥つながることがどれだけ困難だったか。

(島の乙女)さんはこの投稿の追伸に、
「さださんはどうしてそんなに女心が分かるのでしょうか?」
と書き添えていらっしゃいました。
まったく同感です。
「恋歌くちずさみ委員会」は、
さだまさしさんの曲がきっかけで生まれたコンテンツです。

唐突ですがここで、さだまさしさんへ勝手に感謝を。
「あの甘ずっぱい名曲のおかげで、
 わたしたちはこんなにあたたかなやりとりを
 読者のみなさんと続けることができています。
 ありがとうございます、さだまさしさん」

「住所録」という歌のこと、
投稿をいただくまで忘れていました。
収録されている「うつろひ」という
アルバムは持ってたはずなんだけどなあ、と、
この機会に聞き直してみました。
覚えてました。すらすらとメロディが出てきました。
七五調の歌詞は、わかりやすいものですが、
ほんとうのせつなさを理解するのに
15歳ははまだ若かった。
いまになってやけにしんみり胸を打ちました。

住所録と書いてアドレスノートと読みます。
パソコンやケイタイが普及するまえは
住所録は年に一度書き換えるものでした。
ぼくにも覚えがあります。
このひとは、消すべきだろうかと。
逡巡して、書き写さずにおいて、
でも古い住所録は捨てられなくて、
歌の主人公のように、ひきだしの奥に仕舞いました。

もう、こういう、
「携帯電話なんてなかった時代は」
みたいな話は食傷気味かもしれないけどさ、
やっぱり、くちずさみ世代は
言いたくなっちゃうのさ。

たとえば、ぼくらは、
その人になんとか会えたりしないものかと、
その人が行きそうなところへ
意味もなく出かけたりしたんだよ。
会えるかっつーの。
街、広すぎるっつーの。

もう、その時代に、好きな人に
どんなふうにコンタクトしたか、
自分でも忘れてしまってるね。
俺と彼女をつなぐものが
黒電話と日本郵便だけで、
いったいどうやって接点を持ってたんだろう。

古き良き、とあえて書いてしまうけど、
コミュニケーションツール未発達時代の
切ない恋愛模様、読み応えがありました。
いまでも大切な関係を保ってらっしゃること、
それはそれで、とてもよいことのように
感じられました。

そう、年をとってからの
古い大切な知人とのつながりについては、
いろんなツールが発達していることの
ありがたさを痛感しますね。

高校2年生のころ。
晩秋に入り、我が故郷京都の朝晩は冷え、
テスト勉強する際に部屋が寒いので
ストーブが欲しいなぁと友人にこぼしておりました。
気を利かせた我が女子校グループ一味は、
私の誕生日のサプライズプレゼントとして、
何を考えたか架空の男性名「山田一郎」を差出人に
箱にリボンをかけたおしゃれ電気ストーブを
送ってくれました。
それを見たうちの父、
「山田という男はどこの誰か」
と顔が変わるくらい怒りまして、たいへんだった。
「だーかーらー、ともだちがふざけてー」
と、どんなに言っても無理だった。
もしこれが真実の彼からのプレゼントだったら
悲しかったろうなぁ。

そんなふうにいくつものハードルを乗り越えて
成就するのが恋愛でした。
いま、逆に、自分の子どもの恋愛には
なぜかものわかりがよくなってしまっております。
昭和の親のように、もっと反対していったろうかな。
なんて、無理するとよくないですね。
私たちの時代は、娘を箱入りに育てるのが
親の仕事のひとつだったんでしょう。
しかし、幸せのつかみ方像は、
あらゆるものの変化といっしょに変わっていきました。

「行ってらっしゃい! 早く帰ってこいよ!」
せつないです。
相手を応援したい気持ちと自分の欲望が
交互に押し寄せています。
楽しい時間はすぎるのがはやいというけど、
離れがたいときが、いちばん時間がたつのがはやい。
あらゆる離れがたい人たちの瞬間が、
どうぞ長くつづきますように。

週末もまた、恋歌でお会いしましょう。それでは!

2013-11-06-WED

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