クマちゃんからの便り

部屋を出てみた


設置が予想以上の速度で早く棲んで、
NYに居ながら部屋から一歩も出ずに淡々とした
<土踏まず>の日々が続いていた。
いよいよオープニング前日になった。
朝九時、予約の車がアパートに迎えにきていた。



外に出てみようと思ったのは、
通訳のイレイン女史が
インターネットから引き出してくれた
<Dia:Becon>のアクセス入りの
資料を眺めてるうち、作家群のなかに
<RICHARD SERRA>の名前を
見つけたからだった。

NYから電車で一時間、
車でも一時間ちょっと行ったニュージャージー州にある
菓子メーカー・ナビスコの広大な工場跡の美術館には、
<WARHOL>の初期の作品、
資料など六〇年代からの作品が
多数収蔵されているらしいのだが、
今のオレには何の興味も湧かない。
ただ写真でしか見たことのない
<RICHARD SERRA>の
巨大な鉄のオブジェの圧倒的な重量感と
対面したいと秘かに思い続けていた。

まだ膏薬をぺたぺた貼りつけた脚を
引きずる状態だったから、車で行く方を選んだのだった。

マンハッタンの橋を渡りハドソン・リバーに沿って、
心地よく乾燥した緑の空気が窓から流れ込む
森のハイウエイを北上していた。

鉄と戯れ始めた二〇年ほどムカシ、
憧れていたNYに自分のFACTORYをつくって
ゲージツを続けたいと思ったオレは、
無謀にも何とか貯めた一〇〇万円を持って
NYに突っ込んで往ったことがあった。
<オレが生きる理由はゲージツだ>
という勢いだけだった。
あっちこっちの廃工場を探しているうちに
騙されちまって文無しになった。
あっさりNYを諦めジャパンに戻るハメになった。
情けない気分を味わうためだけの高い授業料だった。

『もう二度と往くことはないだろう。
 もし行くとすれば
 NYの方がオレを呼びにきた時だけだ』

と虚しい気分の遠吠えで、
ダウンタウン墨田区界隈のスクラップ工場を彷徨っていた。

二階に家族四人が住む三坪ほどの自動車修理工場は
廃業目前のだったのを、
オレが安く借り受けて棲みはじめた。
オレが鉄と戯れるスクラップ鉄が
ふんだんに溢れているゾーンだった。
すぐにジャンクをゲージツすることに飽き、
NYのことなぞも忘れてしまっていた。
日に日に鉄とともに<オレの生きる理由>も
巨大化していった。

やがて三坪のスペースからはみ出したオレは、
天安門事件直後の北京に遠征して
大量の自転車を古びた溶接機でゲージツした。
奇妙なチャリンコ・オブジェに乗った
人民服のふざけた野郎のオレは、
天安門広場を警備する武装警察に無視され、
「我々はまだこのような芸術を
 鑑賞する学習が出来ていない」
と変な慰めを言われたものだ。
今度はもっと遠くの宏大なモンゴル草原に浮遊し、
ダラムサラ、サハラ砂漠、フィンランドの森林地帯と
彷徨いながら鉄のゲージツを続けているうち、
タフな還暦を期にMILANO、VENEZIAに
トン単位の鉄のオブジェを運び込んでいた。

NYからの招待が届き、
二〇年前の忘れていた遠吠えがよみがえったのは、
去年の秋口だった。
NYのアートシーンもSOHOから
CHELSEAに移動していたらしい。
MIKE WEISSギャラリーは
そのパワーブロックと呼ばれる地域にあるらしいが、
特に嬉しくもなく哀しくもなくただ
『遅かったじゃないか』だった。

今年秋の開催予定が暮れになって半年早まったが
どうかと言ってきた。VENEZIAで出会い
NYへの水先案内人になってくれたキューレターの
Morganに敬意を込めて、
元旦だけ休み二日からの制作は、
スピードといい集中といい我ながら激しいものだった。

『いよいよ明日になったんだ…』

二〇年の記憶をぼんやりと辿っているうちに
車はBecon駅に着いた。

<Dia:Beacon>の贅沢な空間に
六〇年代からのそうそうたるコンテンポラリーの
歴史が横たわっていた。
<WARHOL>、<CHAMBERLAIN>、
<SMITHSON><RYMAN><NAUMAN>を
駆け抜けて目当ての<SERRA>スペースに向かった。

『これだったか』

巨大な鉄の壁の迷宮に吸い込まれていたオレの身体に、
鉄の素粒子までが染み込んでくるようなこの気分で、
NYに来た意義の半分は満たされていた。

あとの半分は明日のオープニングにあるのだろう。

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2005-06-26-SUN
KUMA
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