クマちゃんからの便り

FISHING IS OKAZU OF LIFE


甲斐駒の麓に建てた本格的なFACTORYが、
オレの<制作基地>になって一〇年以上が過ぎた。
開設当初は鉄を切ったり貼ったり
溶接での制作が中心だった。

すぐに物足りなくなったオレは溶解炉を作ってしまい、
一八〇〇℃の火力を手に入れて
鉄を溶かしはじめたのだった。
溶かすことを覚えたオレは
硝子を溶解する二メートル立方の
電気溶解炉まで作ってしまう始末だった。

溶けた一〇〇kg単位の硝子を鋳型に流し込み、
大きなヒカリを宿す
キャスト硝子を創るようになっていた。
ゲージツがオレの生きる理由だとしても、
燃費のかかる人生を選んでしまったものだ。

この夏、山奥の基地から運び出した
一〇トンの鉄のオブジェ群を、
ニューヨークのチェルシー街にある
<マイク ワイズ>ギャラリーに運び込んだ。
評価を受けた二ヶ月の展示も終わってしまえば、
ニューオーリンズを襲った
ハリケーン・カトリーナほどには
アメリカを揺るがす出来事にはならなかった。
太古のチカラはヒトの理不尽をすら露わにする。



<基地>に戻って酒を呑むこともなく
版木に絵を描いて過ごすことが多くなった。
飽きれば糠漬けを掻き混ぜたりするのだが、
それにも飽きればアズサに乗って東京を素通り、
房総や伊豆の海に漂っている。
ゲージツ・ジカンがオレの生きる理由なら、
釣りジカンは<人生のオカズ>というところだ。

釣りをする切っ掛けになったジィさんに会ったのも
一〇年前だった。工場裏の大武川で竹竿を振る
小柄な日焼けした彼は猿のような機敏さで
石の上を飛びポイントを変えては、
次々にアマゴを獲っていた。
釣りとは無関係に半世紀を生きてきたオレには
不思議なシーンだった。
ゲージツに一段落していると

「テンカラに行くけぇ」

とジィさんがタイミングよく
夕まずめを誘いに来るようになった。

テンカラとは、ヤマドリなどの羽根を巻いた
毛鉤で魚を獲る釣法だ。
虫を模しているらしいのだが
リアルなフライフィッシングの毛鉤とは違って、
テンカラ鉤はどこまでもファジーで
とても虫には見えない。
彼はそれを上手く流れに載せて、
自然に流されていく虫に見せて喰わせるのだ。
抽象化させた虫で魚を獲る方法が気に入って、
ジィさんに手解きを受け、その釣りに嵌って
独りでも川に入るようになっていた。

まだ寒い晴れた二月のある日、
FACTORYの前の陽溜まりでボンヤリしていると
軽トラが止まった。

「居ただか、やっと出来ただよ」

褐色に光る竹を手にしたジィさんが降りてきた。
オレのために作ってくれた三本繋ぎの竿は、
一〇本に一本しか出来ないという甲州竿だという。

印籠繋ぎの五メートルはある堅めの長竿は、
山間で確実に獲物を獲る職漁師たちに愛用され
発達した剛直な風情だ。
数少ない甲州の製竿師でありテンカラ釣りの名人の彼は、
厳しい職人の横顔になった。

「解禁になったらナイショの場所に
 尺アマゴを釣り行くじゃんけぇ」

ナイショというコトバに秘密めいた
期待で待っていた解禁の二日前。
彼は、交通事故に巻き込まれて逝ってしまった。
アスファルトのうえは
川のようにはままならなかったらしい。

ナイショの場所はこの此の世では架空になっちまったが、
まだ冷たい解禁日の川に入り、
名人が遺した竿で尺には程遠い十七センチの
アマゴを一匹釣った。

それ以来、溶解する火力に心を奪われ
渓流釣りから遠ざかっていた。
名人が遺してくれた木箱入りの甲州竿も、
鴨居に取り付け封印していた。
マ、山登りのように釣り上がる渓流釣りが
足腰に堪えるようになったせいでもある。

山に密封されたような基地での
ストイックなゲージツ・ジカンが多いオレには、
海に漂う釣りジカンの方が頭蓋的にはイイ。
外川港、勝浦、布良、西伊豆と
釣行の範囲は拡がる一方だ。
太古のうねりに身を任せ、
糸電話のようなラインで
見えない海の底を探る宇宙旅行だ。

最近は離島の三宅島までも足を伸ばして
外洋のカンパチを狙った。
ギブスで固めた骨折の左腕で短い竿を支え、
右手の竿尻で強烈なカンパチのパワーをいなしながら
次々と釣り上げる青年が同船していた。

金髪の天才釣り師・高橋哲也である。
猫顔をした小柄の彼は
格闘家のように無理のないバランスで躯を使い
カンパチを仕留めるのだ。



武川米の刈り入れも終わって
すっかり秋になった山の基地での制作に区切りがつけば、
またいつか海から二〇kg以上のカンパチを
引き上げたいものである。

クマさんへの激励や感想などを、
メールの表題に「クマさんへ」と書いて
postman@1101.comに送ろう。

2005-10-13-THU
KUMA
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