クマちゃんからの便り

北西の風

手すさびに、魚の食餌行為をイメージしながら
仕掛けを作ることが多かった蟄居から這い出し、
午後十一時出船して朝五時まで
西伊豆の夜の海を浮遊する。
釣座をカーペンと背中合わせのオオドモに陣取ったが、
この寒い時期のバカ者はオレ等ふたりだけだった。
手製のタチウオ仕掛けに鯖の切り身を刺して投入。
緑の水中ランプが暗い海に沈んでいく。
底をとり掌にくる魚信を待つ。

一メートル四、五〇ある長いカラダを、
ウソ臭いほどの銀白に輝かせ
海から出てくるタチウオの様は、まるで青竜刀だ。
ウッカリしている指を
ナイフのように切り裂く歯をしている。

獰猛な顔のわりに、身離れのいい白身は
どうやって喰っても美味いし、
表面のグアニン箔は模造真珠の原料にもなるという。

模造の真珠なぞを身につけるニョショウを
目にする機会はないのだが、
偽造や粉飾には人生を腐らす力が潜んでいる。
夜間電力の煙突群が吐き出す白いモコモコが、
新月の闇夜にたなびき対岸の町々を繋いでいた。

不穏な景色のなかでも、
愚直に立ちつくし竿を持つオレは、
まるで船の甲板から突き出した棒ッ杭と化していた。
雪原とは違う極寒の海原で、
哀しくもなく風邪をひいたのでもないのに
流れ落ちる鼻水を、ときどき袖口で拭う。

しかし小さな当たりに合わせる
タイミングのことごとくが、
鈎の寸前でエサを鋭く喰い千切られてしまう。
合わせるのがまだ早過ぎるのか‥‥
久しぶりの釣りで下手になっちまったのかなぁ。
否、今宵のタチウオは狡賢いのだ。
日によって違う反応をするのが
タチウオ釣りの面白さだ。

イカリで船を停めた船長は、
冷凍さばを切り身にしたら
昼間の疲れでウツラウツラしている。

「掛けた!」

オレは小さな当たりを充分喰い込ませる。
激しく竿先が痙攣した。
愉しみながらリールを巻き上げると
水中ライトに続いて、
揚がってきた銀白の大きな青竜刀が
甲板の上を激しくのたうち回る。



しかし大きなタチウオはそれっきりで
その後は、一メートル程度ばかりがポツポツだから、
イヤホーンを刺してバッハのオルガン曲を聴いていた。
海に漂う至福な気分の棒ッ杭になっていると、
闇の海が少しうねりだした。
風が出てきた朝五時港へ急ぐ。

「北西の風だから今晩は荒れるねぇ」

船長は船を洗いながら呟いた。

「下田まで走って馴染みの干物屋に寄って帰ろう」

用意してくれたキンメのみそ汁と握り飯。
サンマの干物を焼いて貰う間、
オレは売り物にならないキビナゴを
石油ストーブの上で焼く。
小さいながら完成された一匹の魚体は美味い。
<ひもの>の赤い幟がバタバタ鳴っていた。

「干物を美味しくする西風になった」

オバさんが嬉しそうだ。

「釣りは完全にダメだ」

カーペンは残念そうに言う。

クマさんへの激励や感想などを、
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2006-03-17-SUN
KUMA
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