クマちゃんからの便り

老いた海



午後一時を少しまわった陽射しに、
もう真夏の威力はなかった。

『朝のチャンスを逸したオレには、
 もう目はないかもしれない』
 
と思いながらも

『いや、もしかして‥‥』

の根拠のない希望もあった。
まだ頭蓋の半分を占めていた朝の失敗とは、
ドラッグ調整があまくて折角のチャンスを、
根に潜られてしまった。
何とか引っぱり出したが、
岩で傷ついたラインはあっさり切れてしまい、
正体を見ず終わったのである。

『二〇Kgくらいのヒラマサだったかも
 しれなかったなぁ‥‥』
 
初歩的な失敗をまだ悔やんでいた。

小さめのムロアジを鉤に掛け投入した。
海の色がなんだかイヤに黒ずんできていた。
見る見る海が年老いていくような
あのインディゴブルーは今でも思い出す。

オレのリールは手巻きである。
十メートル毎に染め分けられている
ラインの色を目で追っていた。
ムロアジが海底に着いた。

「五〇メートルないなぁ」

糸ふけを取り、
底から三メートルほど巻き上げて深さは四十五、六。

ボンヤリと見ていた竿先がなんと突然暴れだし、
竿先が海面に刺さりそうだ。
下腹に竿尻を当ててリールを巻き始める。

「来た来た来た! 巻いて! 巻いて!」

力石のスピーカーが興奮して叫んだ。
<力石徹>によく似た生真面目な船長だ。
五メートルも巻いたところでビクともしなくなっていた。

「キーパーに付けたままポンピングしながら、
 巻けるだけ巻いて!」

力石も必死である。

「巻きたくても巻けないんだ」

根掛かりかも知れないと思いはじめた。
あんなに暴れた竿先が
ヘヤピンのようになったまま動かないのだ。

しかしハンドルに生き物の生活反応が伝わってくるし、
確かに何かいる。
オレはビクともしない綱柱のように
甲板に踏ん張っていた。
いっぱいに締め込んであったリールから
引き出されていくラインの色が変わっていく。
二〇分は経っていた。

やっとハンドルが巻けるようになってきた。
まだ二〇メートルはあるが確かに巨大な魚である。

「サメかなぁ」

ちょっと弱音を吐いた。

「最後まで、姿を見るまで諦めたらダメだよ!
 巻いて巻いて」

高校時代に甲子園を目指した投手だったという
力石がまた叫ぶ。
久しぶりの生な<スポ根>スピーカーに、
折れそうになるオレの気が奮い起きた。

最後のチカラで巨魚が右に左に激しく動き、
オレの竿先を振り回す。
船長が竿先に合わせ船を前進後退させ
巻き取りを助けてくれた。
最後まで油断は出来ない。
黒っぽい海から赤っぽい巨大な魚体が浮き上がってきた。

「なんだぁ、こりゃ」

オレは別の世界に迷い込んだような妙な気分になっていた。

「デカい、カンパチだよ。
 これは赤ブリっていうんだ」

力石君が操舵室から飛び出して来て、
ギャフの鉤を深々と打ち込んで
やっと甲板に引き上げてくれた。

デカカンパチにもうはね回るチカラも
残ってないらしかったが、
オレも気が抜けて甲板に座り込んだ。
港に戻ると民宿の女将さんや酒を持った親父さん、
近所のヒト等も駆けつけていた。
大工の棟梁もいてお祝いに寸法を取り始めた。

一七〇センチ×四〇センチ×四〇センチの
カンパチ用に作ってくれた箱は、
オレの棺桶にも使えそうだった。
あんな浅い海で、しかも五〇Kgのデカカンパチを
オレが釣り上げるなんて。
オレは大きな魚体を棺桶に収め、
隙間に氷を詰め込みながら、
ちょっと酸っぱい気分になった。

何でオレだったんだ?



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2006-11-21-TUE
KUMA
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