クマちゃんからの便り |
ナベゾーが死んだ 死んだ友人や知り合いの通夜には 何度か駆けつけたことはある。 葬式に列席したのはあれ以来だった。 ワイドショーで見る役者の弔辞は どんな名演技でも嘘くさいものだが、 ゲンぺーさんの優しいナベゾーへの言葉は、 さすがに芥川賞作家である。 フワンフワンと引き込んでいく。 続いて、漫画雑誌『ガロ』で ナベゾーの先輩編集長だったシンボーが始まった。 垂れる鼻水の啜り具合の<呼吸>も、 抑え気味の抑揚も見事な<言葉遣い>になっていて、 ゲンぺーさんに輪を掛けてイイ弔辞になっていた。 ナベゾーはオレの二册目のエッセイ集に 挿絵を描いてくれたイラストレーターであり 大好きな漫画家だった。 ナベゾーが創り出すヒトビトは どの時代にも是非居て変態人間である。 早いとこ復刻本が出て欲しいモノだ。 ゲンぺーさんは現代アートのあの赤瀬川原平さんだし、 シンボーはときどきウダウダと 酒呑の相手をしてくれるあの南伸坊である。 ナベゾーの葬儀は 一回だけのイイ<弔辞ライブ>だったから、 出棺まで立ち会った。 蓋が開いた箱のなかは 白い菊に埋まった旅路化粧をした顔の長い老人 ナベゾーがいた。 眼鏡はしていなかった。 肝臓癌だったらしい。 「笑って送ってやってください」 と気丈に言うナベゾー夫人は、 自分の肝臓も分けてやったという。 全てを尽くしたイイ女は強いわい。 焼き場に向かう車を見送った。 十三、四年前オフクロと兄弟だけで ひっそり送った親父の葬式を、 つかの間思いだしていた。 十七歳で家出してから三十五年経って 親父の危篤を知った。 駆け付けると和解もしないままだった親父の布団が 大袈裟に上下していた。 呼吸補助機に繋がっていたのだ。 「もう九十九%植物状態なんだって。 アンタが間に合ってよかった‥‥」 オフクロが静かに言った。 機械の一部となってはいたが 穏やかな親父の顔がオレを待っていてくれたようで、 あっさり和解した。 安心してカメラのシャッターを切った。 突然、親父が半身を起こしたからたまげて、 カメラを放り出して逃げた。 オレに追いついた医者と看護婦に 「ヒカリが視神経を刺激しただけです、大丈夫ですから」 病室に連れ戻された。 一応長男というものに生まれついていたから、 オフクロに残したという 「バカ息子どもが、富士山を見たときに ちょっと掌を合わせるだけで 墓参りに来たことにしてやる」の言い付け通り、 親父自身が月賦を済ませていた富士の霊園に ひっそりと納めたのだ。 正午過ぎの左門町。 ゲンぺーさん夫婦やちくま書房の松田、高橋章子、 金持ちの沢井、シンボーなどが優柔不断にいた。 「ビールでも飲むかい、とにかく歩こう。なんかあるよ」 香港食堂みたいな店があった。 飲茶を食い紹興酒がたちまち四本、五本、 バカ笑いの三時間。 まだナベゾーがその辺にヘラッといそうだった。 まだ明るい春の午後。 オレとシンボーが新宿方面に歩き出す。 まだウダウダ呑みたかったのだ。 後ろから犬コロみたいに高橋章子がついてきた。 そのうち消えるのだろうと思っていたら、 スキンヘッドとおにぎり頭に挟まって とうとう新宿二丁目。中国人の餃子屋で呑む。 「子供にメシを作りに帰りなさい」 タクシーに押し込んだ。 そろそろ<NADJA>。 腹が減って<長春館>、 四谷シモン、詩人・桑原、評論家・上野、 だんだんヒトが集まってもう午前二時。 南もオレもクルクルパー状態になっていた。 前日は<誰でもピカソ>の収録。 この番組も一〇年を迎えるのだ。 一〇年という区切りは人生にそんなにあるモノではない。 ミラノに続いてヴェネチアでの個展のとき、 映画祭のリド島で武さんと一緒にあの<座頭市>を観た。 色んなコトがあったわい‥‥ 三ヶ月待ちの予約という物凄い寿司屋で 巨匠・北野武の還暦の祝い。 『巨匠、おめでとうさん』。 シマアジの刺身からはじまって、 カツオだってマグロだってただ者ではなかった。 普段は山奥に棲息しているヴェドウィン たまに都会に出てくる感じだ。 <トポロジー>や<相対性理論と量子論>の入門本や、 ペンローズの本なぞも買った。 春まで少しあるから山に帰って、 本でも読んでやり過ごすかい。 なあに慌てることはひとつもないわい。 |
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2007-02-14-WED
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