クマちゃんからの便り |
触覚の旅 田植えも終わった村の緑もすっかり濃くなっている。 日に日に天に昇っていく緑は、 もう甲斐嶽の七合目辺りまで攻め上がっている。 まだ雪を頂きに残した和菓子のような甲斐嶽を、 いつも眺められるこの窓はオレの気に入りだ。 「モネの絵は、眼にすぎない。 しかしそれは素晴らしい眼である」 モネの絵について言ったセザンヌの言葉だ。 モネを礼賛しながらも、人間が感じる世界を <視覚>にだけ頼り狭くしている <眼にすぎない>と批判もしているのだ。 如何にして触覚を復権させるかというテーマと 生涯とりくんだセザンヌの絵画は、 ピカソたちのキュービズムになっていき、 現代美術の出発だったのである。 本棚から引き出した画集に、 過ぎ去って往った二〇世紀の美術の断片を 眺めて過ごす五月だった。 七〇年代も過ぎた後半の美術群に思いを馳せていたら、 ちょうど飽きてきたところに、 予期せぬ山岳地帯のヒト等がやって来た。 去年、川口での展覧会設営を手伝ってくれた、 道志方面の村から来た男等が ショーチューを持って訪ねてきたのだ。 囲炉裏に炭を焚き、 今まで釣ってフリーズしておいた イサキ、カンパチ、イセエビに 村のトマトで味付けしたブイヤベースの鉄鍋を掛けた。 酒がすすむにつれ無口だった彼等は、 生真面目な顔つきのままで淡々と <燕>や<鹿>や<猪>、<芋虫>、 <爺><婆><オンナ>について喋りだす。 集落での<生き死に>を語る生き生きした方言は 泥臭さく、痛い、くすぐったい、 口の中がジャリジャリしてくるような、 ドロリとした臨場の感覚がオレを充たしていた。 笑わせようなぞしてるのではなく、 始原のエネルギーを摩耗せずに残した彼等は、 <作業服を着た石器人>たちである。 <触覚>という感覚のチカラ瘤を見せてくれた 愉快なエン会だった。 そんな意味では<セザンヌ>みたいなヒト等である。 今度は表敬に、ギャートルズ集落を訪ねる約束をした。 マムシや鹿や山岳料理を喰うか。 ムカシ、痛む奥歯を ドライバーで根こそぎ刮いだ痕が腫れて、 挙げ句に差し歯にしていた。 その裏が何かの弾みで欠けてしまった。 舌先で探ると半径一ミリ 深さ〇.〇二ミリほどの欠損らしい。 口の中は普段は見えないし気にもならないのだが、 そんな小さな変化でも どうも気になってどうなるでもないのに、 のべつ舌先で確かめのが癖になっていた。 以前世話になった順天堂病院に行って、 腕のイイ美形の女医さんに診てもらった。 死体のようになっていたら、 もう気にならないように削ってくれた。 久しぶりのお茶の水、神田近辺の本屋街を歩く。 山岳から都会。そしてまた窯場での作陶。 高橋テツヤとの釣り連載と、オブジェ制作で三宅島。 <触覚>の旅が続く。 |
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2007-06-04-MON
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