山岳往ったり来たり
湾岸地区のスクラップ・ヤードを点々としていたから、
バーナーで鉄を切り刻む男等や出入りする
十トントラックの運転手等とも顔見知りになっていた。
運び込まれてくる鉄屑でそびえ立っていた
スクラップの山に登って、世界を見渡していたのだ。
回転速度、摩擦係数、水や、風や、土の記憶を持って
錆びていく鉄屑を見渡して、
オレの手にかかる鉄を引っぱり出しては
錦糸町に借りていた工場跡に運び込んでいた。
バーナーやグラインダーで巨大な鉄の文明を
コラージュしまくっていた。
やがてクラッシュ&ビルトの風が吹き、
コンクリートまみれの鉄骨やH鋼に混じって、
FRPやプラスチック等のスクラップが増えていた。
都市に溢れる滅びを知らぬ卑しい物質である。
FACTORYを構えた東京下町も
マンション街に変わってしまい、
オレのいまの工場は山梨の山岳地帯に移っている。
大きな鉄へのデッサンは増えるばかりで、
銅板に刻み込む鉄のデッサンを
腐食させることが多くなった。
<暗箱男シリーズ>は一月後半から
山岳のFACTORYで始まったオレのプロジェクトで、
ちょうどNHKの<わたしが子どもだったころ>
というドキュメント番組とシンクロして始まった。
(二月二十七日NHKハイビジョン・夜十時放映)
大きな銅板に刻むための
二メートル立方のピンホール暗箱は、
ガキのジダイにメリヤス編みをしていたゴミ箱と
相似である。
鉄を求めて頃、浮遊していた湾岸地帯を
十数年ぶりに訪ねた。
当時まだオレと同年配だった労働者が爺ィになって、
まだ働いていたヤードには
相変わらず海風にさらされている。
錆びてヤードの土に戻っていく鉄が
オレの血をまた騒がせた。
二月は和歌山の太地を訪れる。
南紀白浜空港まで、奈良の山奥から三時間かけて
ピッカリ君が迎えに来ていた。
個人的な興味の取材だったが、
太地までここからさらに二時間。
新宮まで足を延ばし、なれ鮨を食う。
来年の春は新宮の<火祭り>に参加するか。
春一番が吹きすさぶ山岳FACTORY。
朝六時に起きると室内は四℃。
暖まるまで時間がかかる。
銅版画、ブリキ箱のオブジェ、
長編原稿で一日がたちまち終わってしまう
まだ寒い日々である。
NHKデジタル衛星ハイビジョン
わたしが子どもだったころ
「さかさまのキオク〜ゲージツ家 篠原勝之〜」
午後10:00〜10:44
(再)2月29日(金)デジタル衛星ハイビジョン・午後0:00〜0:44
(再)3月2日(日)デジタル衛星ハイビジョン・午前8:00〜8:44 |
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