ありがとうとありがとう。
3月10日土曜日、旅の2日目。
飯舘村の宿で目覚めると、窓の外は一面雪景色だった。
きょうの予定は、わりとしっかり決まっている。
朝から福島県立医科大学の
学内講師・黒田佑次郎さんらと落ち合い、
飯舘村についての話を伺ったあと、
実際に村のなかを案内していただく。
避難先から帰村されている方を、紹介していただく。
そして午後からは相馬市に向かい、
一日遅れの合流となる浅生鴨さんを駅で拾ったのち、
宮城県女川町へと車を走らせる。
「なんだかぼく、怒られてばかりじゃないですか」
後部座席に乗り込んだ鴨さんが笑う。
あたりまえだ。あれほど相馬駅で待ち合わせだと言い、
着いたらそこから動くなと念押ししていた駅から、
鴨さんはてくてく歩きはじめていた。
「みんな飯舘村からこっちに来てるんだよな」
「飯舘村はたぶん、あっちだな」
サングラスをかけ、おおきなリュックを背負い、
キョロキョロあたりを見渡しながら歩く
野良ガモを発見したのは、運転手の永田さんだった。
「なにやってんですかー!!」
永田さん、泰延さん、ぼくは一斉に叫び、車を路肩に停め、
「あっ、わっ」とか言ってよろこぶ鴨さんを捕獲し、
訓練してきたかのような連係プレーで後部座席に押し込む。
あまりの驚きと幸運とばかばかしさに
ゲラゲラ笑いながらぼくらは、鴨さんを責めたてる。
「動くなってあれほど言ったでしょ!」
「たまたま信号待ちで止まったから見つかったものの」
「なんでじっとしてられないんですか!」
弁明をあきらめたかのように鴨さんは、のんびり口を開く。
「いやぁ、やっぱりこうやって会えるのは『縁』ですね」
「縁じゃない! 縁いらない! 約束してたでしょ!」
3人は声を揃えて鴨さんを叱り、またゲラゲラ笑う。
そして誰ともなく、ここにいないあの人たちを思う。
「これ、糸井さんや燃え殻さんに見せたかったなあ」
「ねえ。ぜったい爆笑するよ。くっやしいなあ」
「このドライブレコーダーに、録画されてないのかな」
「いやあ、映像で見てもあの衝撃は伝わらないよねえ」
笑いながらぼくは、つくづくそのとおりだとうなずく。
鴨さん捕獲からさかのぼること数時間前、
ぼくは飯舘村でまったく同じことを思ったのだった。
「これはここに来て、ここを見てからじゃないと、
ことばだけではまったく通じるものじゃないよなあ」と。
雪の降る朝、福島県立医科大学の黒田佑次郎さんは、
同僚の佐藤紀子さんと一緒に宿まで迎えにきてくださった。
ふたりは普段飯舘村で、住民の方々のご家庭を訪問し、
健康面や心理面をケアする活動をおこなっている。
ただ、ひとくちに住民とはいっても、
飯舘村の避難指示が解除されたのは、2017年の3月。
それ以前は福島市や相馬市などの避難先を
一軒ずつ訪ね歩く毎日が続いていたし、
避難指示が解除された現在でも、
飯舘村に帰村している住民は1割弱だという。
毎日のように飯舘村の方々と接する黒田さんによると、
いま村が抱えるおおきな課題は、
「村民の心がバラバラになってしまったこと」だという。
なぜバラバラになってしまったのか。
ぼくらの素朴な疑問に対して黒田さんは、
避難生活が長引いてしまったこと、
放射線に対する考え方が個々人でかなり異なること、
そして賠償金の問題が(その多寡を含め)、
やはりおおきく横たわっていることの3つを挙げる。
避難生活が長引くほど、避難先に生活基盤ができていく。
しかも避難先の大半は、福島市や相馬市などの都市部。
仕事、子どもたちの教育、その他の利便性において、
飯舘村よりもずっと整った環境が、そこにはある。
放射線に関しても、
線量の「見える化」も進み、科学的な安全は理解できる。
ただ、理解と納得は違う。
頭では安全を理解できても、
心で納得できない方々は少なくない。
そこはもう、ひとつの考え方を押しつけることはできない。
ひとつの家庭のなかでも、考えに隔たりがあったりする。
賠償金についても、避難先で嫉妬の対象になったり、
見えない心の壁につながったり、
場合によっては生活再建の意欲を奪いかねなかったり、
必要不可欠なものでありながら、
いいことばかりと言い切れるものでは決してない。
聞けば聞くほど、考えれば考えるほど、むずかしい問題だ。
これからの飯舘に、なにが必要なのか。
どうすればバラバラになってしまった村が、
またひとつになれるのか。
黒田さんは答えはわからないけれど、と断りながら、
こんなふうにおっしゃった。
「住民の方々が口々おっしゃるのは、
自分たちは震災以降、
ずっと誰かに『ありがとう』と言っていて、
誰かから『ありがとう』と言われる機会がなくなった、
ということなんです。
ぼくはここに大事なことが詰まっていると思います」
ああ。ぼくはここで、
糸井さんから何度も伺った話を思い出した。
震災後のほぼ日は、東北と、とくに気仙沼と、
どんどん仲良くなっていった。
糸井さんは「まずは、気仙沼と友だちになろう」と考えた。
友だちになってしまえば、関係は続くに決まっている。
支援も応援も人の行き来も、続くに決まっている。
思えばそれは「ありがとうを言い合える関係」なのだ。
東京で何度も伺っていた「まずは、友だちから」の意味が、
自然豊かな飯舘村にきて、ようやくわかった気がした。
言おう、ありがとうを。
言ってもらおう、ありがとうを。
そんな関係を、ひとりでも多くの人と築いていこう。
それがたぶん、働くということであり、
生きるということであり、つながるということなんだ。