ほぼ日 |
30代で開発をやりはじめた頃は、
いったん戸惑って、その後に開き直って
自分なりにやりはじめる時期に入るんですね。 |
佐藤 |
自分でやれる方法をやりはじめた時期と、
畏敬の念を抱く人たちに会う機会が増えた時期が
重なっていました。
自分なりに開発やりはじめると
十年ちかく営業をやった経験が
生きてきたような気がします。
ぼくの長所は、
「いろいろやる」ということなんです。
校門がなくて、
授業の出欠もおおらかな高校だったので
自由ななかで、野球、バスケ、ラグビー、ゴルフと
スポーツでも何でも、いろいろなことを
やってきたんですけれども、
この「いろいろやる」ということが、
あとになればなるほど、
「やっておいてよかったなぁ」と思えます。
実際にやってみると、やっぱり、
いつも何かを見つけているんですよ。 |
ほぼ日 |
営業のころは、どんなことをされていましたか。 |
佐藤 |
ぼくは群馬県の担当だったので、
都会型の営業ではなかったんですよ。
ちょっと変わった営業にならざるをえなかった。
これがよかったんです。
何が変わっているかと言うと・・・。
ふつう、都心の営業は、
小売店まわりをやって、
そのうちに問屋さんの担当になって、
それからマーケティングみたいなものをやります。
徐々に扱う量が増えていく。
順番もやる内容も決まっている場合が多いです。
だけど、地方の営業は、
問屋も小売りも、それからホテルも、
スキー場も、県の施設に置くビールまで、
ぜんぶひとりでやらなければいけなかったんです。
いろいろな要素を一度に手掛けなければいけないし、
量も、大中小すべて担当する必要がある。
こうなってくると、生活も変わります。
都心の営業マンは、だいたい
10件ぐらいお得意先をまわって
会社に帰って自宅に帰宅しているぐらいでしょう。
でも、ぼくの場合は扱うお得意先の数が多いから、
泊まりになっていたんです。
ゴルフ場、スーパー、県施設、飲み屋さん、
だいたい3泊4日ぐらいになりました。
火曜日に「行ってきまーす」と出かけると、
金曜日の夜まで、だいたい家に帰らない。
毎週毎週、これをやっていました。
これをくりかえしていると
「佐藤ちゃん、まあちょっと話そう」
という話になってくるんです。
一緒に温泉につかりながら、
「こいつ知ってる? 紹介するよ」と。
つきあいの幅が広くなるし、
いろいろなことが見えてくるんです。
そもそも、ぼくは
そういうことがとても好きですし。
次の人も、
紹介で話をしにいったわけだから
すぐに仲良くなれる。
ホテル経営者と飲み屋が知り合いだったり、
知り合いや情報が網の目のように増えていく。
この仲良くなっていく過程が
今の人間関係に似ていると言えば似ている。
すごくいい経験だったと思います。
小売の状態をぼくがとても把握しているので、
問屋さんと会っても
「佐藤ちゃん、いろいろ知ってるんだね?」
と話が弾む。
都心型の営業のほうが
エリート地方っぽい気もしますが、
ぼくにとっては、田舎で営業をできたことが
とてもよかったと思います。
おなじ何日という時間のなかでも、
ぼくは人の倍ぐらいの
情報量を得られた気がします。
それがなんでできるようになったかと言うと、
それはぼくは会社に戻らなかったし、
自宅にも戻らずに3泊4日だったから。
毎日会社に帰って自宅に帰ってという生活と
時間をすべて使って泊まり歩いてというのでは、
ずいぶん違ってきます。
ぼくにとっては、バイタリティを鍛える
源のようなところがありますね。 |
ほぼ日 |
都心の営業に比べて、ひとつひとつの
お店の売りあげは少なかったかもしれないですが、
規模がどうあれ、それぞれのお店は
それぞれなりに真剣に商売をしていたでしょうから
佐藤さんはそういったノウハウを
かなり受け継いでいるのですか? |
佐藤 |
そうだと思います。
スキー場に、
一日で千ケースの荷物をあげるノウハウだとか、
そういうことも含めていろいろ学びました。
尾瀬の沼に入るには、歩いて進むしかないんです。
すごいつらい思いをして、
二時間かけて尾瀬銀座まで辿り着く。
大荷物なんてとても持てないけれど、
どうしたらいいんだろうと聞くと、
仲良くなった尾瀬沼の人が人夫を紹介してくれる。
そのかたたちが背負ってくれるんですね。
さらに仲良くなると、人夫の親玉は
ヘリコプターを飛ばしている会社と仲がいい。
だからそのうちに
ヘリコプターを紹介してもらって、
それでビールを運ぶようになるだとか、
そういった感じでつながっていくんですよ。
一見のろい動きなのですが、
信用でつながっているから、一度つながると
じわじわと網が広がっていくんです。
情報屋になりたいわけではなかったし、
自分としてはただ話したい人と話しているうちに、
おもしろい人どうしがつながっていたという。
・・・それは実は、いま東京でやっていることと
ほとんど似たような人間関係なんですよ。
やっている仕事の分野が、
営業から開発に移ったというだけで。
生きた目をしている人と話すのがおもしろいから、
あの人も、このおもしろい流れにひきこみたい。
そういう連続なんです。
自分が問題を解決できる裁量が広がるし、
さらに、自分には解決できなくても、
誰々さんに聞いたら解決してくれそうだとか、
そういったアタリがついてきました。
営業は、おもしろかったです。
ひとりですべて担当なので、
非常識なことも仕事に取り入れていました。
たとえば、去年の売り上げに比べて
もう5万ケース増やす目的があったとします。
そうすると、ぼくの場合は、まずはいきなり
「5万ケースを一瞬にして買ってくれる所は?」
と考えるのです。その次に、
「3か月で5万ケースぶん売る方法」
「半年で売る方法」
「一年で売る方法」
・・・と考えていきます。
これがすべてうまくいって、
最大でぜんぶできて、目標の増加量の
四倍を達成してしまったこともあるんですよ。
こういうのがぼくのやりかただったので、
ビールの開発をはじめたころの
ロジカルな調査を重んじる仕事には、
なかなか慣れることができなかった・・・。
いままでの成功事例から学ばなければいけない
という雰囲気があり、しかし今まで
ぼくが群馬でやってきたことは違っていたわけで。
開き直って、それに抵抗をしめしはじめたのが、
ビールの開発に携わってしばらく経ってからでした。
ぼくは、カタカナ語のマーケティングはやめよう。
グジュグジュになりながら自分の方法でやろう、
と思って、違う方向でビールの開発をやりました。
それは当時はあまりうまくいかなかった。
ビバレッジに移って
自由に開発をやるようになって、
そのぶんを取りかえしているのかもしれません。
ビールの開発では、落ちこぼれに近かったんです。 |