[糸井]
おひさしぶりで。
[村松]
おひさしぶりで。
[糸井]
この対談のオッケーをファックスでくださったとき、村松さんは、伊丹さんのことを
「一冊の本として書くターゲットとしては、 永遠の逃げ水みたいになっております」
と書いていらっしゃいました。
ぼくはそれがなんだかピッタリな表現だなぁと思うんです。
伊丹さんというのは、もしかして
「逃げるように、逃げるように」いた人だったんじゃないでしょうか。
[村松]
そうかもしれない。
[糸井]
だけど、考えてみれば、伊丹さんとつきあいのある方々も、そういう人ばっかりなんじゃないかなぁ?
村松さんにしても、その傾向はあるんじゃないでしょうか。
[村松]
ああ、そういえばありますね。
[糸井]
ぼくも、伊丹さんのことは「なにか気になる」と思っていた人間ですから、つまりは、同じ病気だと思います(笑)。
[村松]
うん、きっとそうだよね。
伊丹さんが雑誌の『mon oncle』(モノンクル)をやるときに、誰かいないかなぁという話になって、イトイと伸坊さんを紹介したのは俺なんだけど。
[糸井]
え?!
村松さんだったんですか。
[村松]
そう。だって、「伊丹十三」が「糸井重里」には、
[糸井]
そうか‥‥直にはたどり着かないですよね。
うーん、村松さんだったのかぁ。
考えてみれば、そうですよね。
[村松]
栗本慎一郎さんあたりの人たちについてもそうで、
「あいつがいるなぁ」なんて話をぼんやりしていくうちにあの雑誌が成り立っていくことになるわけだけど、伊丹さんは、まぁ、自分がはじめから考えてたことですべての道が開かれたと言うし、思い込むよね。
それはつまり、本気で思い込む(笑)。
[糸井]
本気なんですよね(笑)。
大物は、みんなそうです。
[村松]
そこがコツなんだよな。
たしかにさ、
「鉄棒につかまらせてくれた人がいるから 俺はウルトラCができたんだ」
なんてことかみしめてるやつにできるわけないもん、ウルトラCは。
[糸井]
ははは、そうですよね。
そうか、どうりで『mon oncle』は伊丹さんにしては『ガロ』っ気が強いようなおかしなメンバーが集まったわけですね(笑)。
村松さんは当時、中央公論の編集者として伊丹さんの相談を受けてらしたんですか。
[村松]
うん、まだ会社にいたころだった。
伊丹さんは、俺のこと
「ブラバス」って呼ぶんだよ。
ブラバスっていう化粧品、ありますよね。
[糸井]
うん、資生堂の「BRAVAS」。
[村松]
ムラマツ、ムラマツって言ってるうちに「ブラバス」。
あのね、伊丹さんは、俺の8つ上なんだよね。
[糸井]
8つ、ですか。
[村松]
まぁ、ブラバスって呼ばれてうれしくてしかたがない、というわけじゃないんだけどさ(笑)、俺を最後までブラバスって呼んでた。
[糸井]
伊丹さんは、村松さんにとってまず最初は、どういう存在だったんでしょう。
[村松]
最初に会ったのは、会社に入った翌年か‥‥あるいは入社の年かもしれない。
22歳ぐらいの頃です。
伊丹さんはまだ、「十三」じゃなくて
「一三(いちぞう)」と名乗ってた。
まず、伊丹さんの作った『ゴムデッポウ』という短編作品を観たの。
[糸井]
最初の監督作品といわれてるやつですね。
『ゴムデッポウ』1963年公開
[村松]
そう。ちょうどその頃『ヨーロッパ退屈日記』も出てたんだ。
それ、読んでさ。
‥‥俺はその頃、先輩から1日ひとり違う人に会え、って言われてて。
[糸井]
22歳の新入社員だから。
[村松]
うん(笑)。
「知らない人に毎日ひとり、 例えばそれが靴磨きの人だとしても、 違う人に会ってたら、 1年経てば365人に会うわけだし」
なぁ〜んてこと言われてさ、実は冗談で言ってたらしいんだけど俺はそれを本気にしてね。
唐(十郎)さんに出会ったのも、みんな、そんなながれなの。
毎日違う人に会うという目的で電話して、そのうちのひとりが伊丹さんでした。
「中央公論の村松と申しますけど、 『ヨーロッパ退屈日記』を読んで、 『ゴムデッポウ』というのを観て、 おもしろいと思ったものですから」
って。
[糸井]
22歳の青年が。
[村松]
そう(笑)。
当然、「何なんですか」ってなるじゃない。
[糸井]
なる、なる。
[村松]
「いや、ちょっとお会いして、 何を考えてらっしゃるか お話してみたい」
[糸井]
(笑)
[村松]
そしたらね、「どうぞ」となったんです。
[糸井]
なるほど。
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