第2回 どん底時代の途中入社。
[糸井]
CM制作のプロデューサーの仕事って、
「予算のないところでどうするか」とか、そういうことばかりでしょう。
[斎藤]
ええ。人に話をするときには、まず嫌なことから、つまり、お金の話からしなきゃいけないんだ、ということをそのとき痛いほど学びました。
[糸井]
どんな会社の仕事をなさってたんですか?
[斎藤]
おもに、製薬会社や自動車メーカーの仕事をしていました。
自動車メーカーの仕事は、CMじゃなくて、本社1階フロアの展示映像をすべてやらせていただいたんです。
課長あたりの方が決裁権を持ってて、
「やれ、やれ」「やりたいからやるんだ」
とか、そういう感じがあって、みっちりと仕事をさせていただきました。
[糸井]
その、「みっちり仕事」はたのしかったでしょうね。
[斎藤]
たのしかったですねぇ。
ものづくりっていいな、と思いました。
[糸井]
わかる、わかる。
[斎藤]
そこの方は「うちに来ないか」とまで言ってくださいました。
だけど、そこで「ものづくり」を経験したことで、ぼくはメーカーに行きたいと思ったんです。
つくること、そしてそれが目の前で消費されていくことがやりたい。
そう考えて、制作会社を辞めて、職を探しました。
[糸井]
先に会社を辞めちゃった、と。
すっぱりと。
[斎藤]
無鉄砲なタイプでしたからね。
3か月ぐらい経つと、お金がなくなってきました。
試験に行く電車賃がなくなり、ラジカセを質屋に入れて面接に出かけたりしました。
「あ、どうしよう。やばい。
仕事が見つからない」
[糸井]
たいへんなことになりましたね。
[斎藤]
そこから、人生がいろいろと転がりまして‥‥ぼくが転職活動していたのは、アサヒビールが
「スーパードライ」を出して2年目にあたる年でした。
「スーパードライ」は、飛ぶ鳥を落とすような勢いだったんです。
キリン一辺倒だったビール業界が、そうじゃなくなった時期で。
[糸井]
ええ、よく覚えています。
[斎藤]
そこで、
「アサヒビールが、保有不動産を開発するアサヒレジャー開発という子会社を作りました」
というような記事が出ていました。
社員も募集していたので、試験を受けることにしました。
それが話がどこからかコロッと変わりまして、ぼくはアサヒレジャー開発という会社に入るつもりだったのに、いつの間にかアサヒビールの本社入社になっていたんです。
試験の3回目の段階で、副社長面接だったんですよ。早い早い。
[糸井]
「スーパードライ」は本当にすごかったですからね。
‥‥そういえば、アサヒビール会長の樋口さんと野球場で会ったことがあります。
野球場で、やたらビール飲むオヤジがいたんですよ。
[斎藤]
わかります(笑)。アサヒは、そういう感じ。
[糸井]
球場の客席によく知らない夫婦が座っててスーパードライの売り子さんが来たら、とにかく「おっ!」と言ってうれしそうにいちいち買うんです。
[斎藤]
はははは。
[糸井]
3杯目か4杯目かを買うときに、
「いかがですか」ってぼくにビールを差し出してくださいました。
それが実は樋口さんだった。
なんて言ったらいいでしょうね、とにかくあの人は「地面」で仕事されてますね。
[斎藤]
そうなんですよねぇ。
ぼくはエレベーターで、社章をつけてなくて怒られました。
「ちょっと来い!」と言われて、この人誰だろう?
って思ったら、それが樋口さんだった。
電話も、よく直接掛かってきましたよ。
「樋口だ」
「すいません。どちらの樋口さんですか」
「アホか!」
[糸井]
球場でお会いしたとき、樋口さんはとてもおやさしそうに見えましたが怖いときは怖いですか?
[斎藤]
怖いときは怖かったです。
特に、当時のアサヒビールはすごく熱があったと思います。
[糸井]
おそらく、危機意識もすごかったんでしょうね。
[斎藤]
そうですね。
どん底を経験してますから。
なぜぼくが当時、どさくさにまぎれて入社できたかというと、アサヒビールに、ぼくの年代の人がすごく少なかったからです。
ビールが売れず、工場を売却してリストラやって、新卒採用が8人だけの世代だったんです。
その「8人」も、酒屋さんの息子とか、アサヒビール入りゃビールがただで飲めるだろうとかいう、不埒な考えで入ってきてる連中ばっかりでした(笑)。
その新卒8人が、働き盛りの30代前になったとき、人口分布的に「やばいぞ」ということになったんです。
もう、スーパードライも売れるし、猫の手も借りたい状態。
[糸井]
ぼくは、キリンのほうの仕事をしてたからスーパードライが出てきて、みんなが「負けるか」って思ってたところにいました。
ものすごくおもしろかったですよ。
(つづきます)
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