第1回更新

1
 今みたいな時代、どんな思いであろうと、強い感情をもてるのは幸せなことだと私は考えている。
 何となく好き、何となく嫌い、何となく生きづらい、そんな程度しか心を動かす余裕のない人々が多すぎる。
 それは確かにしかたがない。何もかもが早く変化する。自分がゆっくり動けば、止まっているのと同じで、周りがどんどん追い越していってしまう。電話やメールで次から次に新しい話が流れこみ、その意味をよく考える暇もなく返事をしたり、次の行動を決めなくてはならない。
 感情よりも行動が先だと、どうしても自分の気持を確かめる余裕がなくなってしまう。だから、なぜ自分がこれをしたいのか、あるいはしたくないのかを、はっきり説明できない人が増えているのだ。
 その点、私は幸せだ、といえるだろう。ずっとあの人が好きで、それもすごく好きで、あの人の存在が私の生活の中心軸だった。あの人の代わりに手紙を書き、あの人が帰ってくる日に備えて、できる限りの準備をした。
 身元引受人として恥ずかしくないよう、頑張って仕事もした。若い頃にたくさん射った注射のせいで、この何年かはすごく体調が悪かったけれど、もうすぐ、もうすぐ、と思えば耐えられた。
 今から思いだしても本当に長い時間がかかっている。
 最初は十二年といわれ、それなら八年くらいですむのかな、と思っていた。それが二十二年もかかった。
 なぜかはわかっている。まっすぐで妥協を知らないあの人を、規則だらけの監獄に押しこめようとするからだ。あの人は決して折れない。どんな理由があっても、相手や周囲に合わせて自分を殺すなんてできないのだ。
 だから私は好きになった。欠点がない人ではない。でも別れた奥さんに対してもそうだったように、人を差別しないし、一度守ると決めたものにはまるで野生の獣のように体を張る。
 あの人にそんな風に思われるなら、私は死んでもいい。二十六年前、初めて会ったときから私はそう思ってきた。でもそうなることは、きっと一生ない。
 だがこの二十六年間で、今が一番幸福だと私は断言できる。なぜなら、あの人といっしょに暮らしているから。
 触れようとすればあの人はきっと怒る。言葉にしたって嫌がるだろう。それでもかまわない。あの人とこうして同じ屋根の下で過す時間が、私にとっては何ものにも替えがたい宝物なのだ。
 そして、あの人も、今の時代にあって幸せだ。なぜなら、憎しみとはいえ、強く激しい感情を抱いているからだ。
 その憎しみが誰に向けられているのか、私は知っている。あの人と奥さん、子供との仲を引き裂いた男だ。その男への憎しみをかたときも薄れさせることなく、二十二年間をあの人は獄に耐えてきた。
 こうして自由になった今、あの人にはその憎しみを晴らす権利がある、と私は思う。それが結果、再びあの人の自由を奪うことになっても、あの人の命を縮める結果になっても、私はそれを応援する。悲しいとは思わない。
 なぜならあの人の存在はすべて、その憎しみが支えているからだ。
 これほどまでに人を憎める人を、私は知らない。だがこれほどまでに人を好きになる私だから理解できる。
 明日は手紙を書く日だ。息子さんに、あの人が帰ってきたことを知らせよう。そしてできれば会わせてあげたい。遠くにいる息子さんだから、簡単には会いにこられないだろうけれど、あの人の強い憎しみの根源が息子さんへの愛にあることを知れば、きっと、必ず、父親に会いたいと願う筈だ。

2
 携帯電話とインターネットの普及によって、詐欺をのぞけば最も変化した非合法ビジネスが、盗品や違法ドラッグ、拳銃などの密売だ。
 かつて売人たちにはそれぞれの縄張りがあり、そこさえつきとめれば監視することで取引の現場をおさえられた。同時に顧客も、その現場を知らなければ売人との接触がかなわなかった。つまり売る側にも買う側にもある種の専門性が必要だった。
 それがインターネットによって売買情報を誰でも検索できるようになった。さすがに「覚せい剤」だの「拳銃」で情報を得るのは難しいが、それにかわるネット上での隠語を入力すればたちどころに売り手の条件が入ってくる。該当する隠語は、警察の追及を逃れるために次々と変化し、覚せい剤ひとつとってみても、「ネタ」や「冷たいの」といった今や古典的な言葉から「雪」や「クリスタル」といった暗号的な表現にまで"進化"しているのが現状だ。
 インターネット上で顧客と売り手の接触が完了すると、次は直接の取引だが、その現場に新宿や渋谷といった盛り場が選ばれることはほとんどなくなっている。
 かつては不特定多数の人間がいききする盛り場が、安全な取引場所だった。しかし防犯カメラの出現がそれをかえた。たとえそこに張り込み中のデコスケがいなくとも、VTRにしっかりと現場を撮影されている、という具合だ。防犯カメラは盛り場ほど数が多く、新宿の歌舞伎町などは、写らない場所を見つけるのに苦労するほどだ。もちろんあるにはあるのだが、いってみればそこは落とし穴のようなもので、うしろ暗い連中が集まるのを、舌なめずりして警官が待ちかまえている。
 かくして非合法品の売買取引は住宅街にその舞台を移した。昔は人通りの少ない地域での取引は目立つとして敬遠されたものだが、携帯電話さえあれば長時間うろつく必要がないことから、むしろ安全と考える者が増えたのだ。確かに住宅街には、盛り場ほど防犯カメラは設置されていない。住宅街にあるカメラは、侵入者を監視するのがその目的で、路上で待ち合わせる者や、数十秒となりあわせて止まる乗用車などを撮影することはない。
 鮫島の仕事はつまり、それだけ困難になった。
 だがいつの時代も、古臭い人間はいる。インターネットなど信用できないと決めつけ、頑固なまでに古典的な方法にこだわる変わり者だ。
 露崎【つゆさき】という売人もそうしたひとりだった。縄張りは新宿駅東口の雑踏。これ以上はないというくらい古めかしい場所で、クスリを買いにくる客を待っている。ベテランだけあって防犯カメラに取引の現場をおさめられるような下手は決して打たず、半径五十メートル以内に警官がいればたちどころにその匂いを嗅ぎつける。
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