糸井 |
何になるか、を考えた時に、
「こういう順序で勉強をしていけば、
ある職業に、なることができる」
というノウハウを、今は、
みんなが求めているじゃないですか。
そういう方法を通すことは、
無理なはずなのに、平凡なひとりの
プロフェッショナルになれる、
というだけのところを目指す意味では、
ぜんぶが、資格審査になっているというか。
科挙の歴史に、非常に似ていますよね。 |
吉本 |
似てきちゃう。
日本もある程度は類似したことを
やらせていますよね。 |
糸井 |
どこも、おなじようなものじゃないですか? |
吉本 |
ほんとにそうで、また違う時に
ウルルン滞在記を見ていたら、
仮面劇を習いに行く回があって。
仮面劇を教える過程を見たら、
何が関係あるかと思うんですけど、
やはり手足の動きを柔軟にするような、
空中回転をやらせておいて、
それで仮面劇をマスターさせるようです。
ただ、劇が終わって
最後に、首をあげた時には
違う仮面になっているのですが、
それをあまりに素早く変えるものだから
いつ、どういうふうに変わったのかが、
わからない。それは秘密なんだそうです。 |
糸井 |
(笑)メシのタネとしては、
秘密にしてるんでしょうね。
例えば、
「江戸時代の手品」のようなものって、
ひとつタネを知っているだけで、
それで食えているんですよ。
だからやっぱり、
秘伝って、おもしろいですよねえ。 |
吉本 |
「秘伝」なんだ。 |
糸井 |
そこは、「食える」っていうものの、
すごさですよ。 |
吉本 |
そうですねえ。
ほんとうに、そう思いますね。
特に隠さにゃならんようなことは、
何にもないんだけれども、
仮面をどこからどう出すかは、
教えねえんだ、っていう。 |
糸井 |
教えないだろうなあ。
メシのタネの競争相手が増えるわけだから。
・・・今の日本だと、その秘伝の逆で、
何でもかんでも、やりかたまでも
あらわしていきますよね。
「ほんとうは誰でもできる」
というところまでノウハウを出して、
それでもなおかつ、
「そいつでなければいけない理由を
探している時代」という感じがありますけど。
・・・えーっと。
非常に青臭い質問なんですけども、
そういう時って、ひとりの
人間の価値って、何が左右するんでしょうか? |
吉本 |
ぼくはそういうことを
考えたことがありますので、
少しは、おこたえできると思います。
ぼくの行き着いたところは、
要するに、平均値といいましょうか。
「あるひとつのことに関して、
こうやれば食えるようになる」
ということの、平均値が、おそらく10年なんです。
「あること」を10年間していたら、
食えるようには、なる。
それはぼくが、保証します。 |
糸井 |
(笑)「保証する」って。 |
吉本 |
そういうことに関しては
靴屋さんであろうが
小説家であろうが「おんなじ」だから、
「十年間毎日ずうっとやって、
もしそれでモノにならなかったら、
俺の首やるよ」
というか、それ以外には何にも関係ないよ、
って、ぼくの判断としては、
ぜんぶ、そういうことにしちゃっています。
そうじゃないかもしれないんですけれども、
ぼくは、そうだって、決めているんです。
そうすると、村上春樹が
小説で書いているように、
「おなじ成分のおなじシェーカーで
カクテルを作っても、
うまいものを作る奴とまずい奴には、
必ず違いが出てしまう」
という風なことは、
ぼくは、認めないですね。
そういうことを言う人も認めない、
とぼくは、思っています。
「・・・そんなことがあるか」っていう。
おなじ器でもって、おなじ成分の割合で
おなじように振ったら、
おなじものができるのは、当たり前だ、
とぼくは思っています。
もしかしたら、違うかもしれないけど、
「そう思ってうたがわないんだよ」
と、ぼくは決めちゃっていますね。
それ以外のことは、何もないよ、って。
もちろん、才能みたいなものがあるとすれば、
その人の器とか特徴とか性格までが
発揮されていくでしょうけれど、
「そこまでのひとは、あんまりいない」というか。 |
糸井 |
おお。 |
吉本 |
だけれども、
食えるか食えないか、
商売になるかならないかで言えば、
ぜんぜん、器なんていうものは関係ない、
何でもおんなじだ、とぼくは思っていて、
そういう結論が
いちばんいいんじゃないか、と考えてます。 |
糸井 |
と、いうことは、
今の時代まで残っている
古典の名著の作者たちも、
「10年やって、ある開花をしただけ」
という人であって、それが現在まで
いろいろな理由があって残っているけど、
「飛び抜けた資質があったから、残っている」
というようには、考えないほうが、
いい、ということでしょうか。 |
吉本 |
「考えないほうがいい」
と、ぼくは思います。
(つづく) |