糸井 |
ぜんぶで幸せになろうとすると、
だいたいが、苦労しますよね。 |
吉本 |
あぁ、そうなんでしょうねぇ。 |
糸井 |
「これが欲しい」の、
そのひとつだけを欲しがっていたら、
ツラくなかっただろうなぁ、という。 |
吉本 |
そうでしょうね。
それを聞いて思うのは、
文学の分野でもおなじだなあ、ということです。
似ているようで似ていないのが、
「文学研究者であること」と、
「文学者であること」なんですよね。
その両者は、いちばん似ていません。 |
糸井 |
おぉ。
それは、おもしろいですね。 |
吉本 |
ぼくはそう思います。
文学研究者と文学者は
一見すると、紙一重で、
似ていることをしているようにも
思えるんだけども、まったく逆のものです。
そこに大きな錯覚があって、
小説家で言えば、
中上健次さんという人は、
晩年に、それでミスったなぁ、
というふうに見えるんです。 |
糸井 |
研究者のほうに、寄っちゃった。 |
吉本 |
そうなんですよ。
ぼくは、
「そういうの、よせばいいのに」
と、実際に中上さんに
言った覚えがあるんですけどね。
「お前が頭のいいというのはわかった、
だけども、頭のいい人に寄っていくと、
だんだん、小説がヘタになるぞ」
そう言いましたけれども、あの人は
ほんとうに頭が良くて勉強家なものだから、
そうぼくがいくら言ったって、そうなんだ。
だから、
「だんだんおもしろくなくなるなぁ
お前の書くものは」
と思うように、なったんです。
いちばん最後なんて、いちばんひどい。
『異族』っていう、
途中でおわった小説ですけれども。 |
糸井 |
批評を小説にしたような、ものですね。 |
吉本 |
それを読んで、こりゃいかん、と。、
あの人、そんなことなんかしないほうが、
いろいろやれるのになぁ、と思っていました。 |
糸井 |
おもしろいなぁ。
・・・それって、
「『女好き』と『女』は似ていない」
ということですよね? |
吉本 |
なるほど。 |
糸井 |
「女好き」は、
いちばん「男」ですから。 |
吉本 |
そうです。 |
糸井 |
だから、中上さんの場合、
「女」だったはずなのに、
「女好き」になっちゃったと。 |
吉本 |
「もう少し、こうすればいいのになあ」
って、思っていたんだけども。 |
糸井 |
吉本さんは、批評と小説のようなものを、
行ったり来たりしているじゃないですか。 |
吉本 |
文学研究者、文芸批評家、小説家、詩人、
歌詞を作る人、いろいろな層があるけれども、
今は、この層だ、ある時はこちらの層でやろう、
と、そういう考えかたは、しますね。 |
糸井 |
ふーん。
全体として、
「ひとつの層にだけ入りこんで、
その層のルールに従う」
というのではなくて、
吉本隆明というひとりの人として
ふだんから、居るなかで、
「今はこの仕事をやっている」
という感じなんですね。
家を建てることで言えば、
今は柱を立てている時期だとか、
今は磨いている時だというような・・・。 |
吉本 |
そういう意味では、
自分がこうだ、というようには、
「決めないようにしてきた」
ようなところはあるんですけれども。
考えてそういう風にやっているんですけど。 |
糸井 |
それは、
そうとう意識的にやらないと、
混乱しますね。 |
吉本 |
ひとつの層だけに入って、
「俺は、こうなんだ」
と、全身からそうなって
しまわないことに関しては、
かなり、気をつけてやっていますね。 |
糸井 |
他人の目としては、何とかして、人を
ひとつのカテゴリーに入れたがるけれども・・・。 |
吉本 |
そうそうそう。 |
糸井 |
そこから、絶えず避けていなければ、
いけないんですよね・・・。
あるカテゴリーの中に入りこんでしまって、
プロフェッショナルになっちゃったほうが、
まあ、事業としては、
非常に簡単になりますけれども。 |
吉本 |
そうでしょうねえ。
そりゃ、やりやすいでしょう。 |
糸井 |
ですよね。 |
吉本 |
ぼくの読者は、
あんまり顔が見えないけど、
時々、顔を見せる人が、いるんです。
ほんとうは、顔を見せないような人が
ぼくの本を読んでくれる対象だと思っていますが。
でも、熱心な読者だと言う人のなかで
誤解されていることを感じるんです。
つまり、
「あいつは純文学の批評が専門だから、
七面倒くさいことばかり言ってきたのに、
そういうことだけやってりゃいいのに」
と、思う人もあるでしょう。
でも、ぼくは、ある時点から
割と意識的にやり方を変えたものですから。
「ある条件の読者にだけ通じるもの」
ではなくて、条件なんか
とっぱらっちゃっていこうとしています。 |
糸井 |
意識的に変えたというのは、
どこですか?
(つづく) |