YOSHIMOTO
吉本隆明・まかないめし
番外。

老いのこととか、人類の言語の獲得とか。

第3回 精神を知るための行動って。


吉本さんの話を聞いていると、
ときおり、強い否定の言葉が入ってくるんですが、
中でも、この人らしいなぁと思うのが、次の言葉なんです。

「そりゃ、何も言わないのとおんなじだから」

吉本さんにとって、いろんな主張の中で、
「たくさん単語は連ねているけど、
 結果的には、何も言っていないこと」が、
ほんとうに、そうとう腹が立つものらしいんです。

今日は、まず、2週間前の言葉のなかから、
どういうことが「何も言っていないのか」を、
例として、このコーナーでも、ご紹介していきましょう。


「脳のはたらきと心のはたらきには関係があるか、
 医学生に、アンケートを取った結果があるそうです。
 関係ねえ、って言ったのが、7割で、
 関係ある、って答えたのが、3割だとか、
 そういうことについて、滔々と書いてある本がある。

 『7割のほうがいいんだ。
  3割の学生の方は、駄目な考えなんだ』
 そういうことを主張しているわけで、
 それに対する反対意見もあったりするわけだけど、
 ぼくはそれには、悪口を言ったんです。
 
 その悪口っていうのは、結局、
 『そんなことわかったって、知ったって、
  そんなの、何も言わないのとおんなじじゃねえか』
 っていうことなんです。
 7割がいいとか、それに反対して3割がいいとか、
 『言いあいをしているどちらかが駄目』なんじゃない。
 両方ともが、これは駄目なんだと。

 そんなアンケート結果のことについては、そんなの、
 幾回言ったって、何の意味もないんだっていうか。
 ・・・わかったって何したって、
 どうってことないことなんで、それは、
 もう、結構ですよっていうのが正直な気持ちなんです」



このあとに、
「それだったら、ぼくはこういうのに興味がある」
と話しはじめてくれたのが、
その日の話の、大きな流れを生んでいったんです。


「心と脳っていうことなら、
 ぼくはまた、違うところから関心がありまして。
 つまり、専門家の説明を聞いていると、要するに、
 人間とサルがわかれていったのが、
 だいたい、100万年単位の時点になるんだよという、
 そういう常識がありまして。
 それで、人間側のほうで、日本語なら日本語と、
 民族ごとの言葉にわかれちゃったっていうのは、
 いつかというと、10万年単位の出来事なんだという。
 
 で、どうも、その、
 10万年単位よりもこちら側のことにばかり、
 話がいっちゃってるんじゃないかと思いまして。

 それこそ、ヘーゲルやマルクスといったような
 ヨーロッパの哲学者みたいなのに言わせると、
 世界の歴史を考える時に、
 どうも、その10万年単位以前のことを無視している。

 人間が木の実を食ったりとか、
 魚をどっかでしゃくってきて食ったり、
 山ん中で弓矢でケモノを追っかけて、
 それ捕って、それを食ってたりしてたってのは、
 『動物とすこしも変わらない生活なんだ』
 っていうのが、ヘーゲルの考えかたですからね。
 
 それはおかしいんじゃねえか、と。
 
 数百万年前から、数十万年前までのあいだに、
 人間は何をしてたんだっていうことなんです。
 ただ、ボヤーッとしてたわけじゃないでしょう。
 そのあいだに、何かを、やっていたはずって思うんです。
 食うものは、たしかに動物とそう変わらないものを
 食っていたろうけど、その間に何が起きていたのかを、
 言えなきゃ、おかしいじゃねえかと。

 歴史の中に、その大きな出来事を加えずにいいって、
 それは、なんでなんだという、そういう疑問があって。
 
 人間とは何かってことを考えるなら、
 ぼくの場合には、そういうところに興味があるんです。
 ヨーロッパにも、そういうことを
 考えている人がいるんですけれども、
 日本でいうと、それはやっぱり、あれなんです。
 
 中沢新一っていう人がいるでしょう?
 彼は、チベットに、ひと月に1回ぐらい行くらしい。
 ぼくはそれは、以前は、趣味でもって、
 好きだからいったりやったりしてるんだろうな、
 っていうふうに思っていたんだけど、これがなかなか、
 大将(中沢新一さん)の本をきちんと読んだら、
 これが、そうじゃないんですよ。
 
 大まじめなんです。
 
 数百年前から数十万年前までのあいだのどこかで、
 人間は地域ごとに違う言葉を喋るようになった、
 っていうことなんですけども、
 その間にいる人たちが、何を考えていたのか。
 どういう精神の内容を持っていたのか。
 
 中沢新一のやっているようなことは、
 これは、まさにそこに行き着くようなことで。
 ぼくは、彼の本を読みなおして、感心しました。

 
 精神を、ただ単にほじくりかえすだけなら、
 『こういうところに、こういう遺物があるから、
  こんなことを考えていたんだろうなぁ』
 と判断してしまって、それでおわりだけど、
 その遺物がある時の人間の心の中がどんなものか、
 どういうことを考えていたのかまでは、
 わかんないんですよ。
 
 その人たちが何を考えているのかは、
 同じことをやってみたりとか、
 それ以外に、わかる方法がないわけですね。
 
 中沢さんは、それを、趣味じゃなくて、
 本気でやっているらしいんです。
 チベットで、この人はたいへん能力のある人だと
 知られている人のところに弟子入りして、
 初歩のところから、修行をするわけですね。
 ひとつできたら、次の段階はこれだ、とか言って、
 そういう人から、教わる。
 教わる中で、その人たちが何を考えているかを推察する。
 未開の時代からあった宗教の儀式みたいなのを
 続けている大家たちが、今もいるわけだから、
 そいつらのところに弟子入りして、弟子入りしながら、
 『何を考えていたんだろうな、昔の人たちは』
 っていうことを、察知するっていいましょうかね。
 そういうことを、やってるんです。
 宗派の研究よりも以前のことに、つっこんでる。
 これは、『それだよ!』って思うわけです。
 
 未開社会の人にいくら話を聞いても、
 宗教家から言葉でいくら解説を受けたとしても、
 そこに生きていた時の精神内容は依然としてわからない。
 それをわかるには、そこに生きていた人と
 おなじことをやるよりしょうがねえ、みたいなね。
 
 ふつう、ぼくらが、書いた本を読んだり、
 翻訳された読みものをいろいろ読んだりして、
 『あいつの気持ちがわかるなぁ』って言うのは、
 やっぱり、外側からなんです。内側からではない。

 内側からっていうことで、わかるためには
 その人とまったく同じことをするしかないっていうのは、
 中沢さんの方法だし、それはとても重要というか、
 おもしろい考えなんだと思うんですよ」



吉本さんの、この、未開社会のことを考える話や、
中沢新一さんについて思っていることについては、
このまま、次回も、ゆっくりと、紹介していきますね。

つづきます。

2003-06-20-FRI

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