サムライ闘牛士登場?!
スペインに闘牛士になりに行った男。

第5回 デビュー戦前夜!

毎日、ぼくはウエルバを流れる大河である
オデイエル川の河口にかかった橋の上を走る。
練習後や仕事後に1日の締めくくりとして
この橋の上を走ることは、
もうかなり前からの習慣になっています。

夕陽が沈んでいく頃、
ウエルバの空は幻想的といえる程の美し
さをみせることがあって、
ゆったりと流れるオデイエル川と共に
なんともいえない調和をみせる瞬間がある。
ぼくはそれを眺めながら走るのが好きなのです。
いろいろなことを思ったり、考えたり・・
この川こそぼくの心を知る!みたいな(笑)・・・

1999年10月15日、
スペインのマスコミから
ぼくの下宿先に電話が次々と入ります。

「牧場で怪我したそうだけど、
 君は17日の試合に出れるのかい?
 ウエルバの新聞によると
 試合出場は絶望的とのことだけれど・・
 もし君が試合に出ないのなら、
 当日ウエルバに取材に行っても意味がないから・・」


ウエルバのローカル新聞の一紙が、14日に起きた
ぼくの牧場での事故と怪我の模様を報じてしまったのです。
元々この新聞社の闘牛番記者は
ぼくの出場に疑問を抱いていたようです・・
「地元の子たちを差し置いて、なぜ彼が?」
という訳なのです。

ぼくは、
「私は17日の試合に予定通り出場します。
 何も問題はありません。
 日本人闘牛士・濃野平は日曜日午後12時に、
 第二級格式闘牛場であるウエルバの
 ラ・メルセ闘牛場からデビュー致します!」

と応え続けるしかありませんでした。

ぼくはもちろん周囲は大変な混乱状態にありました。
一体どうなってしまうのか?
怪我の事・・試合3日前の右肩脱臼、
物理的に試合出場が可能かどうかはさて置いて、
形式的にもこのような状態で試合出場、
それも闘牛学校主催の試合に
出場が許されるものなのかどうか・・
はっきりしない情報が飛び交い、
いたずらに踊らされるぼくと下宿先の家族たち。
なんでも主催者側は
すでに代わりの闘牛士を探し始めたとのこと!

14日にデビュー戦成功を図って購入した練習用の若牛は、
ぼくに実戦経験・効果を与えてくれるどころか、
なんと医師に出場不能診断を告げさせる程、
ぼくを徹底的に追いつめてくれた・・
自ら首を絞めるとはまさにこのこと、なのでしょう。

ぼく自身の気持ちとしては、
たとえ右腕がまったく使えなかろうが、
左腕一本でも出場するつもりでした。

しかし、主催者側が他の者を試合に出してしまうとなると、
ぼくはもう手も足も出せなくなってしまう・・

単に憧れでしかなかったものが、
今や目前に迫ってきており、
手を伸ばせば届きそうなところまで近づいて来ています・・
ところがここに来て、
ぼくは自らの力と意志だけでは
どうにもならない状態に追い込まれてしまったのです・・
やっとの思いで掴んだチャンスは今また、
ぼくの手元から遠ざかっていこうとしている・・

「結局・・今日までがむしゃらに
 頑張ってきたことの挙げ句が、これ、か?・・」


ぼくはそれを受け入れることが出来ませんでした。

右腕は右肩からくる激痛でほとんど動かせない有り様。
実際のところこのような状態で試合に出ても、
はたしてどのように演技をこなすのか
見当すらつかないけれど・・闘牛を、
このデビュー戦だけを望みにしてきたぼくにとって、
この機会を失ってしまうことはなんとしても、
なんとしても耐え難いものだったのです。

医師は試合出場「不可能」とまで言ってのけてくれた・・
ぼくに試合出場を諦めさせ、
治療に専念させるに強く告知したのでは?

ぼくは最後の最後まで諦めない決心をしました。
だから早速、ぼくなりにその「不可能」を
くつがえす為の行動を開始するのでした。


「タイラ!こうなったら左腕だけで演技をこなし、
 仕留めも左手でやっちまえ!お前なら出来るぜ!」

親友のビクトルも大いにハッパをかけてくれるのでした。
こんな風に・・突飛な発想で力づけてくれる者が
周りに一人でもいるってことは本当にうれしいことです・・
なんか自分がもう一人いるみたいです(笑)。

そんなぼくに、日本人闘牛士の出場絶望を報じた
新聞社とライバル関係にある新聞社が、
救いの手を差し伸べてくれるのでした。
その新聞社の闘牛番の記者で、闘牛評論家でもあるD氏は、

「ただちにセビリアへ行くんだ!
 私の友人であり、
 ラ・メルセ闘牛場の医師であるヒメネス氏に会うんだ。
 彼が君の試合出場可能である旨を記した
 診断書を書いてくれる。
 既に連絡はとってあるから、すぐに行くんだ!」


15日の午後、下宿先の主人であるホアキンと彼の兄弟、
そしてぼくの3人はとるものもとらずに
セビリアへ駆けつけました。
ぼくは右腕をガムテープみたいので釣ったままの姿。
袖なんて通せないもんだから、
ホアキンに借りた真っ赤なカーデイガンを
じかに羽織ってました。

ヒメネス医師のクリニックに到着し、
早速先生のところへ通されますと、

「うん。この怪我は珍しくはないんだよ、
 闘牛士の職業病みたいなものだ。
 そうか、明後日試合に出るのか。
 時間は全然ないね・・。
 手術すると出っ張った骨は元の位置に戻るけれど、
 大手術だしリハビリ期間も半年位かかってしまうんだ。
 手術なんてしなくて良いよ。

 そりゃ一生右肩から骨は出っ張ったままになるけれど・・
 痛みは数ヶ月も経てば自然に消えるし、
 日常生活にも闘牛活動にも支障はなくなるはずだ。
 君はどうしても試合に出たいのだね?

 試合当日、入場行進後に
 医務室へ来なさい。
 痛み止めの注射をちゃんと用意しておく。
 注射を打てば、右腕は動くはずだ・・」


前日にかつぎ込まれた救急病院の一般医との、
この違いは一体何でしょうか?
さすが闘牛士専門のお医者様!(笑)。

ヒメネス医師の書いてくれた診断書を
ウエルバに持ち帰ったぼくらでしたが、
もうウエルバでは試合の主催者側はもちろん
世間一般の声までが、ぼくの試合出場にたいして
かなり否定的な見方が支配していたのです。

試合主催者側では、他の者に連絡を取ったとのこと、
ぼくの代わりとして出場させる為に・・
「診断書」って、何それ?
今更遅いよ・・とでもいうかのように。

眠れぬ夜を過ごす・・
一体試合に出れるのか、出れないのか?
さらに鎮痛剤飲んでるのに消えない右肩の激しい痛み。
右腕を釣ったままの状態で
眠ることを余儀なくされていたものですから、
なんか30分間隔位で痺れが来てしまい、
そのたびに腹筋運動よろしく
上半身を起こさずにはいられないみたいな。

苦しいし眠れないし、これじゃ拷問じゃないですか・・・

16日土曜日の午前中に、
ホアキンと奥さんのドロレスがラ・メルセ闘牛場へ
最終交渉に向かいます。
ぼくには外出禁止令が出ていたのです(笑)。
「腕なんか釣ったままの姿で人前に出たら、
 もう絶対明日の試合になんか出れなくなるぞ!」
という訳。

「タイラの事は残念だけれど・・無理ですよ。
 大体、怪我してなくても
 まともに演技出来るかどうか分からないような者を、
 こんな状態で試合になんか出せませんよ!
 彼が努力してきたことは私たちも分かってますが・・
 こうなってしまった以上、
 他の者にもチャンスを与えなければいけないんですよ!」

と主催者側。

まさに正論、なのでしょう。
彼らは何も間違ったことは言ってないし、
正しい判断であることも明らかでした。
客観的にみるのならば、客観的に・・

しかし、奥さんのドロレスはそんな彼らの
「正論」に屈するような人ではありませんでした・・
13人兄弟姉妹の長女として田舎に生まれ、
子供の時から学校にも通わず、家計を助けてきた
肝っ玉ドロレスは、ありとあらゆる場をくぐってきた
強かな彼女は、そんな当たり前の事なんかに
納得したりはしないのです。
「正論」であるかどうかよりも、
彼女の気持ちの方が断然大事なのです。

彼女が自身の心に照らしてみて、
理不尽であると感じたならば
それは大声で非難しなければならないし、
徹底的にそれを主張しなければならない!
のです(笑)。

彼女はぼくの試合出場を心から望んでくれていたし、
その為に今日まで赤の他人であるぼくを、まるで息子・・
のように助けてきてくれたのだから。

「タイラ以外の他の皆だって、
 一生懸命頑張って練習してるし、
 闘牛に夢中になっていることは私にも分かる。
 でもね・・言わせてもらえるなら、
 私の知る限りこのウエルバであの子以上に
 必死になっている者はいない、って事なのよ。

 昨晩だって未明に、バルコニーで
 変な物音がするから泥棒かと思って覗いてみると、
 タイラが真っ暗闇の中でムレタ振ってんのよ。
 右腕釣ったまま左腕だけでね。
 この期に及んでまだ練習してんのよ!
 どう考えても明日の試合に出場するのは、
 タイラ以上にふさわしい者はいない!

 プロモーション試合なんでしょう?
 タイラが出来るって言ってるんだから、
 あんたたちは黙って試合に出してあげれば良いのよ。
 もしタイラが最後まで演技続けられないと見るなら、
 代わりの者でも待機させときゃ良いのよ。
 タイラには出来るところまででも
 やらせてあげなきゃ駄目よ!

 そうでなければこの私は許さない。
 たとえどんなビルヘン(聖母)が
 口出ししたり命令したって、
 この私は決して許したりはしないわよ!」


最後の難関をのり越え・・
ぼくたちはデビュー戦前夜にして
ようやく試合出場OKの確認を済ますことが出来たのです。
最後の最後でぼくたちに試合出場権利を与えてくれたのは
ヒメネス医師の診断書ではなく、もしかしたら・・・
ドロレスによる感情むき出しな一途な声
だったのかも知れません。

今やぼくたちの「目先の目的」は、
日曜日に砂場に立つこと。
闘牛士の正装である
「光の衣装」を身にまとって砂場に立つ・・そこまで!
試合や肝心の演技の事、
もちろんその後のことも一切考えないし、その必要もない。
砂場に立つこと・・それだけ!

あらゆる「雑念」が消えました。
正直に言って、デビュー戦が決定してからそれまで、
試合の事を考えては
演技がちゃんとこなせるかどうかなど、
不安に感じたり迷ったりすることがありました。
逆説的ではありますが、この追いつめられた状態において、
ぼくは異常な集中力を得ることに成功したのです。
某有名柔道家がオリンピックの直前に
予期せぬ大怪我を負ってしまった、まさにその瞬間、
「金メダル取得を確信した」と聞いたことがありますが、
それに似たものがあったのかも知れません。

周りの人たちの一致団結した協力が、そう、
このぼくを闘牛場へ送り込もうとしてくれる気持ちが・・
予期せぬ怪我によって
打ちのめされたはずのぼくを奮い立たせてくれたのです。
なんかもう、ほんの一瞬でも油断すると・・
「感激の涙!」でもこぼれ落ちてしまいそうな、
そんな張り詰めた状態が試合まで続いていたのです。

ぼくは大袈裟でなく爪先から髪の毛の1本先まで
「激しい充実感」を感じていました。
おそらくこのような状況においては、
理想的な精神状態にあったのではないかと思います。


こうしてぼくたちはデビュー戦の勝利を確信したのです。

10月17日、日曜日を迎える・・試合は昼の12時開始。

朝7時に起きたぼくは・・例の「腹筋運動」で
ほとんど寝てなかったけれど(笑)・・
ホアキン、そして日本から駆けつけてくれた親友と共に
車でホテルへ向かいました。

あいにく、お天気には恵まれず雨が降り続いている・・
せっかくのデビュー戦は雨のおまけつきか。
この雨はぼくたちの悔し涙となるか、
喜びの涙となるか・・神のみぞ知る?!

到着したホテルの部屋で、
ぼくは右腕を釣ったガムテープをはがして
恐る恐る右腕を伸ばす。やはりほとんど動かせない・・
無理に動かすと思わず呻き声がもれてしまう・・
頼みの綱はヒメネス先生の痛み止めしかないな、これは。
続いてビクトルも剣係の人
(闘牛士の着替えを手伝ったり雑用を済ます人のこと)
といっしょに到着。
剣係の人、パコさんは
ウエルバから100キロ離れた山の中の町
アルモナステールから、
ぼくのデビューの為にやってきてくれたのです。
「タイラのデビューの時は絶対、この俺が剣係をやるんだ!」
と2年位前から言ってくれていた彼。
その日が来ましたよ・・
よろしくお願いします・・

右肩がこんな状態だから、衣装を着るのも一仕事。
パコさんの容赦ない着付けに
時折叫ぶ声あげてしまう情けないぼく。
まったくもって先行き不安なこんな状態でありながらも、
始終冗談や笑い声の絶えない陽気なぼくら!
この明るさの秘密は一体どこにあるのでしょうか(笑)。

着替えが終わり、いよいよ闘牛場へ向かう時間がきました。
さあ、もうぼくたちはやれることはすべてやった。
後は試合で全力を尽くし、幸運を祈るのみ。
ホテルの部屋を出る直前に、ビクトルが一言。

「セニョーレス!今こそぼくらの日本人がデビューする!
 第二級格式のラ・メルセ闘牛場から。
 この日を迎える為にどれだけの犠牲を払ってきたのか、
 様々な困難をのり越えて獲得した、
 ついにやって来たこの今日という日を
 ぼくらはいつまでも覚えていよう。
 そして共に幸運を祈ろう。神の助けがあることを!!」


彼の音頭の後、皆で記念写真を一枚撮るのでした。

闘牛場へと向かう車に乗り込んだ途端、
いきなりラジオからルイス・ミゲルの
「O tu o ninguna -あなた以外は欲しくない-」
というロマンチックなバラードが流れ出す・・
当時ぼくが好きでよく聴いていた曲なのですが、
実にグッドなタイミング。

とても素敵な気分で
試合開始前のひとときを過ごすことが出来ました。
あなた以外は・・「相手」は闘牛だったのかも・・
ぼくにとって。
曲がエンデイングを迎える頃ちょうどに闘牛場の裏口、
闘牛士たちの入場口へぼくらを乗せた車は到着しました。

マスコミの人たちを始め、
友人や知り合いの人たちが
大勢ぼくたちを待っていてくれます。
「おめでとう!」「幸運を!」「がんばって!」・・
抱擁と握手、そしていっぱいの祝福。

入場行進の準備をしながら観客席の方を覗くと、
残念ながらかなり客入りは悪い・・
このラ・メルセ闘牛場は収容7000人以上可能な
大闘牛場なのですが、この日は悪天候にみまわれてしまい、
せいぜい1500人から2000人程度の入りか。
でもそんなことは問題じゃありませんでした。
お隣りのセビリアからは日本人の応援団が
10人位もやって来てくれました。
彼女たちはぼくの負傷を承知でウエルバまで
応援に来てくれたのです。

「たとえ怪我で彼が何も出来なくても、
 たとえ入場行進しか出来なくても、皆で応援に行こう!」
なんか胸が熱くなるような・・

すべてのお膳立ては整いました!


(明日掲載の最終回に、つづきます!)

2003-06-10-TUE


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